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ホーガンVSアンドレ“世紀の一戦”プラン――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第62回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第62回

 アメリカのプロレス史におけるライブイベントの観客動員記録は、“レッスルマニア3”がはじき出した9万3173人という数字である(1987年3月29日=ミシガン州ポンティアック、ポンティアック・シルバードーム)。  興行収益は160万ドル。全米各地の映画館、劇場でおこなわれたクローズド・サーキット上映はのべ44万人の観客を動員。PPV放映はバイ・レート8パーセント(番組契約可能な全米500万世帯に対して40万世帯が有料受信)。会場内でのグッズの売り上げ総額は54万ドル。いずれもこの時点でのあらゆるプロスポーツ興行の1日あたりの収益記録を更新した。 “レッスルマニア3”のメインイベント、ハルク・ホーガン対アンドレ・ザ・ジャイアントのシングルマッチは、非常にていねいにプランニングされた“世紀の一戦”だった。ビンス・マクマホンは、この試合を「まだいちども実現していないドリーム・マッチ」としてプロモートした。
ホーガン対アンドレ

ホーガン対アンドレの“世紀の一戦”は、まだいちども実現していないドリーム・マッチとして“レッスルマニア3”のメインイベントにラインナップされた(写真は「レッスルマニア3」オフィシャルDVDカバーより)

 じっさいにはホーガン対アンドレのシングルマッチは1980年代前半にニューヨーク、ロサンゼルス、アトランタ、ニューオーリンズ、そして新日本プロレスのリングですでに何度か実現していたが、ビンスはこの事実をあえて無視した。  いちばん有名なところではニューヨークのシェイ・スタジアムでおこなれた試合(1980年8月9日)があるが、“1984”以前のできごとは完全に記録から抹消されていた。1980年代のWWEは、こういったプロレス史の“書き換え作業”をくり返した。それは一種のリビジョニズム(歴史修正主義)といっていいプロパガンダ的な手法だった。  ホーガンは1979年から1981年にかけて約2年間、若手ヒールとしてビンス・マクマホン・シニア体制のニューヨークをサーキットしたが、このデータも“1984”とともにWWE史から消された。  ホーガンは1984年1月のWWE世界ヘビー級王座獲得以来、いちどもフォール負けを喫していない無敵のチャンピオンで、アンドレもデビュー以来、いちども負けたことがない大巨人。ホーガンとアンドレのシングルマッチは“最初で最後の世界最強決定戦”というコンセプトでプランニングされた。  1946年2月生まれのアンドレは、この時点ですでにキャリア23年、40歳のベテランになっていた。持病の糖尿病と体重増加でコンディションが悪化し、この前年から腰の手術―リハビリのため長期欠場をつづけていたアンドレに対して専門医は引退を勧告していたが、WWEはそんなギリギリのタイミングでこの“世紀の一戦”をなんとか実現させようとした。
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ホーガンとアンドレの“第1次接近遭遇”は…
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