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オリンピック柔道で金メダルを獲れる限界年齢は何歳?

高齢者の「達人伝説」は嘘なのか?三船久蔵十段の実力

 昔の武道には、年配の熟達者が血気盛んな若者を手玉に取るという逸話はそこら中に溢れていました。これらの話は「競技」とは無縁の伝承の世界の出来事ではありますが、一考の価値があると思います。特に「剣」(剣道・剣術)や「拳」(空手・拳法)、「気」(合気道・合気柔術)の世界にはこの手の話が多いですが、今回は柔道に絞って論じようと思います。  柔道史上の伝説的な達人といえば真っ先に名前が挙がるのは三船久蔵でしょう。小柄な体格ながら「空気投げ」などの新技を編み出し最高位の十段を授けられ、「柔道の神様」と崇められました。現在でもネットなどで晩年の三船十段の稽古風景の映像を見ることができますがその神技は凄いの一言、本物の達人と言っていいのではないかと思います。  ですが、三船十段についてよくよく調べてみると60歳代にさしかかった晩年には主に自分の弟子筋とばかり稽古していたようで、佐藤金之助、伊藤四男、白井清一、曽根幸蔵、姿節雄などの著名な直弟子や、さらにその弟子に当たる孫弟子との乱取りがほとんどだったようなのです。当時の三船十段の取り巻きはいわば三船ファミリー化していました。弟子が先生に勝つわけにはいきません。ましてや三船十段は「老人童(わらし)」のような性格で、相手が技を受けないと機嫌が悪くなったという話さえ伝わっていますから三船門下の中では十段と乱取りをする際には投げられるというのが暗黙の了解事項であったのではないかと思われます。著名な柔道家・小谷澄之十段は、「三船先生の稽古は一種特別で、ヤアーと先生がいったときには、弟子は飛ばないといけない。そういう稽古でした。お弟子さんあたりは上手にそれをやる」と語り、うまく飛ばないと怒られるので、怒られちゃ割に合わないので自分は1、2回しか三船十段と稽古をしなかったと述懐しています(これが講道館柔道だ 杉崎寛 あの人この人社 1988年6月)。  三船十段は壮年期には直系の弟子筋以外とも稽古をしていたようですが、その頃には三船が不覚を取ったという話がいくつかあります。牛島辰熊が25~6歳の全盛期の頃、大勢が見守る中、21歳年上の三船との乱取りで花を持たせて投げられたところ、三船はその後は乱取りに応じなくなったとのことです。牛島は「勝ち逃げ」されて恥をかかされたことを根に持ち、3カ月もつけ狙って、やっと乱取りを承知してもらい、組んだ途端に送り足払いで投げつけたという逸話が残っています(琥珀の技 三船十段物語 三好京三 文藝春秋 1985年10月)。  その一方で三船十段の実力を称える証言も数多く残っています。特に全盛期の三船を知る関係者からは「三船久蔵批判は先生の若い時を知らない人」だからという評もあります(拳聖澤井健一先生 佐藤嘉道 気天舎 1998年4月)。講道館最強と言われた徳三宝は「野中の一本杉」とあだ名され当時としては巨躯でしたが、若かりし頃、4歳年上の三船に稽古をつけてもらうこと三千数百回に及んだが、ただの一度も三船を投げることができなかったと徳三宝自身の稽古帳に記されています(武道の理論 南郷継正 三一書房 1972年1月)。石黒敬七八段に至っては、「ぼくは、もし三船十段全盛のころなら、かならず十段はなんらかの奇技妙手を考案して、ヘーシンクに勝ったのではないかと思う」とまで語っています(琥珀の技 三船十段物語)。
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現役トップ選手を手玉に取った牛島辰熊と木村政彦
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