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ボブ・ディランを「傲慢だ」と言うほど、ノーベル賞はご立派な賞なのか?

ノーベル委員会よりも、本質を突いたディラン評

 このような苦し紛れの“弁明”よりも、はるかに詩作の本質を突いているのが、およそ30年前のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたミチコ・カクタニによる批評だ。ここでカクタニは、文学における詩とポップソングにおける詞は明確に異なると論じている。
Highway 61 Revisited

Highway 61 Revisited

ただ歌詞を読んだだけでは、言葉と音楽がどのように作用し合っているかを理解するのは難しいだろう。 つまり、アルバム『追憶のハイウェイ61』に見られるような皮肉っぽい歌詞に向かって快活で力強いバンドサウンドが対位法を奏でる、その構図を見逃してしまうのだ。 同様に、単語に対して加えられる荒々しく執拗な抑揚や、独特のフレージングがもたらす楽曲の要点も、音楽がなければ消えてしまうのである。> (「Books of The Times; Times Are A-Changin’」 ニューヨーク・タイムズ1985年11月23日 筆者訳)  誤解を解いておかねばならないが、カクタニは「だからディランは評価するに値しない」と言っているのではない。ポップソングはポップソングで、詩は詩として扱わなければならないとの原則に忠実なだけなのだ。  つまり、ディランを論じるにあたってホメロスやサッフォーを持ってくる行為はナンセンスであると、30年前から釘を刺されているのだ。

ノーベル賞のお墨付きを有り難がる人たちの心理

 今回の受賞にあたっては、本人よりも長年ディランを追ってきた人たちの喜びが目立っている。確かにノーベル賞は世界的なイベントであり、社会に与える影響も大きい。  だがその感激は、日本人が受賞したときに「同じ日本人として誇りに思います」と言ってしまうのと同じように、ディランを愛してきた自分は間違っていなかったのだという曲解に基づいてはいないだろうか?  そもそもプルーストもジョイスもいないリストにディランが入ることが、果たして本当に栄誉と言えるのだろうか? その現実を受け止めてもなお、我が事のように喜べるというのだろうか。  それはディランが喜んでいるかどうかよりも、よほど重要な問題なのだ。 <TEXT/音楽批評・石黒隆之>
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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ボブ・ディラン自伝

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