歴史と伝統の全日本プロレス『世界最強タッグ』――「フミ斎藤のプロレス講座」第16回【後編】

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斎藤文彦

斎藤文彦

 ドリーはNWA世界ヘビー級王者として旧日本プロレスのリングに初来日した1969年(昭和44年)――ジャイアント馬場とアントニオ猪木の連続挑戦を退けて王座防衛に成功し、日本における“世界最高峰NWA”幻想の土台を築いた――から45年間、年齢にすると28歳から73歳9カ月となる現在に至るまで、時代も世代も超えて日本のプロレスファンに“ドリー・ファンク・ジュニア”を披露しつづけている。  試合終了後、ドリーは「わたしはこのリアル・ワールド・タッグ・リーグで3回優勝した。またここに帰ってくることができてハッピーだ。Good Life(すばらしい人生だ)」と語った。となりにいた渕は「95年にドリーさんとのタッグで『最強タッグ』に出たことがあるんだけど、ドリーさん、おぼえてるかな。このコンビでもう1回、出場させてもらえないかな、……出たくないかな」とコメントし、それから大きなため息をついた。 『世界最強タッグ』の公式記録によれば、ドリーとテリー・ファンクのザ・ファンクスは1979年(昭和54年)と1982年(昭和57年)の2大会に優勝しているが、ドリーのコメントにある「3回優勝」は、1977年(昭和52年)12月に開催された『世界最強タッグ』の前身『世界オープン・タッグ選手権』での“初優勝”を指している。  全日本プロレスの創立5周年記念としてプロデュースされた『世界オープン・タッグ選手権』は、まるで梶原一騎原作の劇画のような、あるいは馬場さんにしか描けない“劇画の実写版”のような世界だった。公式リーグ戦出場チームは全9チーム。  ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田(全日本プロレス代表)  ザ・ファンクス(アメリカ代表)  アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク(アフリカ・中近東代表)  大木金太郎&キム・ドク(韓国代表)  ラッシャー木村&グレート草津(国際プロレス代表)  ビル・ロビンソン&ホースト・ホフマン(ヨーロッパ代表)  ザ・デストロイヤー&テキサス・レッド(マスクマン代表)  高千穂明久&マイティ井上(全日本プロレス&国際プロレス混成軍)  天龍源一郎&ロッキー羽田(NWA推薦枠)  ドリー&テリーのファンクスがアメリカ代表、ブッチャー&シークがアフリカ・中近東代表、ロビンソン&ホフマンがヨーロッパ代表という“設定”に当時の少年ファンたちは心を躍らせ、大木&キム・ドクの韓国師弟コンビ、木村&草津の国際コンビら“外様”の存在がこのリーグ戦に通常のシリーズ興行にはない“史上空前”のスケール感と非日常的なドラマ性を与えた。天龍源一郎は前年の1976年(昭和51年)の秋場所を最後に大相撲を廃業し、同年10月、全日本プロレスに入団。約8カ月間のアメリカ武者修行をへて77年6月に帰国し、この時点では国内デビュー(同年6月11日=東京・世田谷)を果たしたばかりの26歳のルーキーだった。 『世界オープン・タッグ』最終戦(77年12月15日=東京・蔵前国技館)でのファンクス対ブッチャー&シークの一戦は“プロレス史に残る名勝負”としていまも語り継がれている。『世界オープン・タッグ』から数えるとことしで通算38年めを迎えた『世界最強タッグ』の歴史は全日本プロレスの歴史そのもので、年代順に優勝チーム(と出場チーム)の顔ぶれをふり返っていくとその時代、その時代ごとの王道・全日本の大河ドラマがはっきりとみえてくる。  馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビは1978年から1982年(昭和57年)まで5年連続出場で優勝2回(78年、80年)。ドリー&テリーのファンクスは78年~82年、84年、86年、87年、90年の9大会出場で優勝2回(79年、82年)。鶴田は馬場とのコンビを解消後、1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの4年間は天龍との“鶴龍コンビ”(84年優勝)、1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)までの3年間は谷津嘉章との“五輪コンビ”(87年優勝)、1990年(平成2年)と1991年(平成3年)は田上明とのタッグでリーグ戦にエントリー。“四天王時代”のプロローグにあたる92年(平成4年)11月、B型肝炎のため長期欠場―セミリタイアした。  天龍は81年、82年、87年は阿修羅・原との“龍原砲”、88年(昭和63年)は川田利明との“天龍同盟”でリーグ戦に出場。89年にはスタン・ハンセンとのコンビで初優勝を果たしたが、翌90年(平成2年)5月、全日本プロレスを退団し、新団体SWS(スーパーワールドスポーツ)に移籍した。  80年代前半に第一線から退いた馬場はドリー(83年、85年)、タイガーマスク(三沢光晴=86年)、ラッシャー木村(84年、88年、89年)、輪島大士(87年)、アンドレ・ザ・ジャイアント(90年、91年)、小橋建太(健太=92年)、ハンセン(93年、94年)、本田多聞(95年)をパートナーに起用して57歳まで『世界最強タッグ』に出場しつづけた。 “不沈艦”ハンセンは82年から1999年(平成11年)まで18年連続で出場。82年から84年までの3年間はブルーザー・ブロディとの“ミラクルパワーコンビ”(83年優勝)、85年と86年はテッド・デビアス(85年優勝)、87年と88年はテリー・ゴーディ(88年優勝)、89年は天龍(優勝)、90年と91年はダニー・スパイビー、92年はジョニー・エース、93年(平成5年)と94年(平成6年)は馬場、95年(平成7年)はUWFインターから移籍のゲーリー・オブライト、96年(平成8年)は大森隆男、97年(平成9年)はボビー・ダンカンJr、98年(平成10年)はベイダー、99年(平成11年)は田上をパートナーに指名。80年代から90年代後半までの18年間で12人のパートナーとタッグを組んだ(通算4回優勝)。  いまから30年まえの84年の『世界最強タッグ』の“目玉企画”は、新日本プロレスから全日本プロレスに電撃移籍したブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)のリーグ戦初参加とテリー・ファンクの現役復帰(83年8月に引退)。全日本プロレスのリングでしか実現しない(であろう)ハーリー・レイス&ニック・ボックウインクルの“NWA・AWA帝王コンビ”が出場したのもこの年だった。 『世界最強タッグ』の歴史を語るうえで欠かすことのできないテリー・ゴーディ&スティーブ・ウィリアムスの“殺人魚雷コンビ”は90年、91年、92年の3年連続でエントリーして2回優勝(90年、91年)。ウィリアムスはその後、ビッグ・ブーバ(93年)、J・エース(94年、96年)、G・オブライト(97年)、マイク・ロトンド(2000年、2001年、2002年)とパートナーを入れ替えながら“武藤体制”の全日本プロレスにも参画した。  90年代はいうまでもなく“四天王”の黄金時代で、三沢は川田との初代“超世代軍”で90年から92年まで(92年優勝)、小橋との新“超世代軍”では93年から95年まで(3年連続優勝)それぞれ3大会ずつエントリー。川田&田上の“聖鬼軍”は93年から98年まで6年連続でエントリーして96年、97年の2年連続優勝。小橋はJ・エース(90年、97年)、菊地毅(91年)、馬場(92年)、パトリオット(96年)らとのタッグでリーグ戦に出場後、三沢とのコンビをへて98年、99年は秋山と新コンビ“バーニング”で2年連続優勝。いっぽう、小橋との超世代軍を解消した三沢は小川良成との新コンビ“アンタッチャブル”で98年、99年の2大会に出場した。また、“四天王”よりもやや若い髙山善廣&大森隆男の“ノー・フィア”も98年、99年の2大会にエントリー。このあたりの“人物レイアウト”がそのまま翌2000年(平成12年)のプロレスリング・ノアの独立につながっていた。  2002年(平成12年)、武藤敬司が新日本プロレスから移籍して新体制がスタートすると“王道・全日本プロレス”の主力メンバーの顔ぶれもガラリと変わった。いまからちょうど10年まえの2004年(平成16年)の『世界最強タッグ』にはデビューしたばかりの大型ルーキー、諏訪魔(諏訪間幸平)が本間朋晃とのコンビで初出場していた。  全日本プロレスの“主役クラス”に成長した諏訪魔がジョー・ドーリングとのコンビで『世界最強タッグ』に初優勝したのは通算10回めの出場となった2013年(平成25年)大会。馬場さんも、鶴田さんも、ブロディも、ゴーディもウィリアムスも、ゲーリー・オブライトも、そして、三沢さんももうこの世にはいない。諏訪魔の「歴史に名を残す!」というコメントは、営業用のコメントでもヒール的なアピールでもなく、全日本プロレスの王道を歩むプロレスラーとしての本音なのである。 文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ ※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。 ※このコラムは毎週更新します。次回は、11月26~27日頃に掲載予定!
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