ジャイアント馬場さん十七回忌追善特別興行@後楽園ホール――「フミ斎藤のプロレス講座」第25回
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
ジャイアント馬場さんの十七回忌追善特別興行がさる1月31日、東京・後楽園ホールで開催された。馬場さんが現役選手のままこの世を去ったのは1999年(平成11年)1月31日。享年61。生涯最後の試合はその前年の12月5日、『98世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦・日本武道館大会でラッシャー木村、百田光雄とトリオを組んで渕正信&菊地毅&永源遙と闘った6人タッグマッチだった。同年の『最強タッグ』は小橋建太(当時は健太)&秋山準の“新コンビ”がスタン・ハンセン&ベイダーを下して初優勝した。
全日本プロレスの1・31『ジャイアント馬場 十七回忌追善興行』後楽園ホール大会にラインナップされたカードはシングルマッチ3試合、タッグマッチ1試合、6人タッグマッチ2試合の計6試合。馬場さんを偲ぶメモリアル・セレモニーは、第3試合終了後のインターミッションのあと、後半戦(第4試合)の開始前におこなわれた。
後楽園ホールの北側のスクリーンにおなじみの入場テーマ曲とともにありし日の馬場さんの入場シーンが映し出され、なつかしの名勝負のダイジェスト版には“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノ、“生傷男”ディック・ザ・ブルーザー、“荒法師”ジン・キニスキー、“黒い魔神”ボボ・ブラジルらが登場した。いまさらのことながら、馬場さんのライバルたちは正真正銘の世界の超一流スーパースターばかりだった。
“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤー、“呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャー、そして“韓国の猛虎”大木金太郎は全日本プロレスの創成期に馬場さんと因縁ドラマを演じた男たちだ。いちばん最後に“新たなるライバル”ハンセンとの最初のシングルマッチ(1982年=昭和57年2月4日、東京体育館)の映像が流れた。ハンセンと初めて対戦したとき、馬場さんはまだ44歳だった。
セレモニーでは馬場元子夫人を先頭に全日本プロレス所属選手と団体スタッフがリング下に整列した。観客も全員起立し、馬場さんの追善供養のための1分間の黙とうが捧げられた。黙とうのあとは「300ポンドー、ジャイアント馬場!!」という木原文人リングアナウンサーによる“選手紹介コール”でセレモニーは終了。元子夫人からファンへのグリーティングのスピーチはなく、セレモニーそのものはひじょうにあっさりしていた。
“追善試合”のエッセンスは――わかる人にはよくわかり、わからない人にはあまりよくわからないような形で――どうやら後半戦の3試合に凝縮されていた。第4試合にレイアウトされた太陽ケア&相島勇人対新崎人生&TARUのタッグマッチは、2000年(平成12年)の全日本分裂――三沢光晴グループによる独立とプロレスリング・ノア設立――の直後、弱体化した全日本プロレスのシリーズ興行を支えた“元子派”の同窓会だった。なかでもこの試合のためにハワイからやって来た太陽ケアは、馬場さんがスカウトした最後のまな弟子のひとりであり、元子さんにとっては“秘蔵っ子”的な存在だ。試合終了後はヒールのTARUだけが先に退場し、リング上ではこの試合を裁いた和田京平レフェリーが感慨深い顔つきでケア、人生、相島の3人の手を高々と差し上げた。
第5試合の6人タッグマッチ、天龍源一郎&曙&ウルティモ・ドラゴン対諏訪魔&青木篤志&佐藤光留のテーマは、諏訪魔自身が「まさか天龍さんと試合をする日が来るとは思わなかった」とコメントしていたとおり、現在進行形の全日本プロレスのエースである諏訪魔と“ミスター・プロレス”天龍の初遭遇だった。
38歳の諏訪魔が65歳の天龍の胸板にこれでもかというくらい強烈なバックハンド・チョップをたたきこんでいった。天龍ももちろんトレードマークの“天龍チョップ”でこれに対抗し、返す刀で諏訪魔がまだ体得していない(と思われる)奥義“グー・パンチ”を容赦なく諏訪魔の顔面に打ち込んでいった。諏訪魔はほとんど試合そっちのけで天龍との接触にこだわった。曙が佐藤をフォールして試合が終了したあとも、諏訪魔と天龍はリングのまんなかでチョップを打ち合った。この日、後楽園ホールに足を運んだ“参列者”は、馬場さんの全日本プロレスと諏訪魔が育った全日本プロレス――ふたつの時代の全日本プロレス――が融合した瞬間を目撃した。
メインイベントの秋山準&大森隆男&渕正信対潮崎豪&鈴木鼓太郎&宮原健斗の6人タッグマッチは、馬場さんに捧げる“追善試合”であると同時に、全日本プロレスのモットーである“王道プロレス”“明るく楽しく激しいプロレス”の現在進行形のプレゼンテーションになっていた。登場人物のレイアウトは90年代前半の“鶴田軍”と“超世代軍”の闘いとひじょうによく似ていて、秋山、大森、渕の3人がかつての“鶴田軍”の立場で、潮崎、鼓太郎、宮原をかつての三沢、川田、小橋のポジションととらえるとわかりやすい。
元気のいい若手勢がベテラン勢を攻めまくると、当然のようにブーイングが起きた。潮崎と鼓太郎、宮原と鼓太郎が場外でかわるがわる反則技の“合体パイルドライバー”を渕にキメた。1月14日に61歳の誕生日を迎え、馬場さんと同じ年齢になった渕はこの日、全部で4回、助走つきのドロップキックにトライしたが、潮崎はそのうちの2回をかんたんにスカした。グロッギー状態でキャンバスにダウンした渕に若手トリオが3人がかりでストンピングの雨を降らせた。和田レフェリーがあきれたような顔で「やめとけっ、もう、お前らー!」と叫んだ。
渕が目のさめるようなスモール・パッケージ・ホールドとバックスライド(逆さ押さえ込み)でたてつづけに鼓太郎からカウント2・9を奪った。渕からタッチを受けた秋山がエクスプロイダーの連発から鼓太郎をフォールしたところで26分超の“追善試合”はジ・エンドとなった。全日本プロレスの過去、現在、そして近未来のイメージを映し出すような試合だった。
「ぼくは選手としても社長としてもまだまだヒヨッコです。馬場さんの足元にも及びません。でも、馬場さんを一歩一歩追いかけていきたいと思います」
試合終了後、マイクを持った秋山はこうコメントしたあと「全日本プロレスの生き字引、渕さんにお願いします」と最後のシメのあいさつを渕に託した。
「いやぁ、本日はありがとうございました。みなさんのご声援がなければこんなにがんばれなかった。追善興行ということで、ふだんの3倍、4倍の力が出ました。みなさん、これからも馬場さんのことを忘れないでいてください!」
ここで馬場さんのテーマ曲“王者の魂”がかかり、選手たちは退場。リングの上が無人になったタイミングで音楽が坂本九さんの名曲『上を向いて歩こう』に変わった。いまから50年ほどまえ、アメリカ武者修行中だった20代の馬場さんは、ホームシックになるとこの『上を向いて歩こう』をよく口ずさんだのだという。オールドファンならばだれもが知っている有名なエピソードだ。
考えてみると、馬場さんのプロレス観と“幸せは雲の上に”“幸せは空の上に”と歌った『上を向いて歩こう』の世界観はよく似ているのかもしれない。そして『上を向いて歩こう』のなつかしいメロディーが心地よくマッチする全日本プロレスは過去も現在も、またこれからはじまる未来においても“馬場ワールド”でありつづけるのである。
文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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『ジャイアント馬場――王道十六文』 不滅の16文キック!波乱に満ちた生涯を綴る |
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