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ダスティ・ローデスは死してなおアメリカン・ドリームの体現者

ダスティ・ローデス

ありし日のダスティ・ローデス

 ニックネームは“アメリカン・ドリーム”。  ダスティ・ローデスは、チャンピオンベルトを必要としないチャンピオン、イントロダクションを必要としないアイコン、リング上ではスーパースター、バックステージではプロデューサーというふたつのアイデンティティーをシンクロさせた偉大なる“プロレス人”だった。  本名はバージル・ライリー・ラネルズJr。1945年10月12日、テキサス州オースティン生まれ。“ローデス”というカタカナ表記はRhodesのスペルどおりのローマ字読みで、正しい発音はローズ――巨人、オリックスなどでプレーしたプロ野球選手のタフィ・ローズもまったく同じラストネーム――だが、やや誤った発音がカタカナとして定着してしまった例だ。ローデス自身の南部なまりをそのままカタカナに変換すると“ローザァ”になる。  ウェスト・テキサス州立大ではドリーとテリーのザ・ファンクスの後輩にあたり、学生時代はフットボールとベースボールで活躍。ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1967年にテキサス州サンアントニオでデビューした。  リングネームのダスティ・ローデスの由来についてはふたつの説がある。ひとつは1950年代に活躍したメジャーリーガー、ジェームス“ダスティ”ローズ(ニューヨーク・ジャイアンツ―サンフランシスコ・ジャイアンツ)から拝借したという説。もうひとつは、映画『群衆の中の一つの顔 A Face in the Crowd』(1957年)でアンディ・グリフィフが演じた主人公ラリー“ロンサム”ローズにあやかったという説。  いずれの説もちょっとずつ正しいかもしれないし、いずれも不正確かもしれないが、いまとなってはどちらでもいいことなのかもしれない。プロレスラーのダスティ・ローデスは、アメリカでは70年代、80年代、90年代、00年代、そして現在まで、プロレスファンならばその名を知らぬ者はいないビッグネームだった。  1968年、ディック・マードックと伝説のタッグチーム、ザ・テキサス・アウトローズを結成。NWAの総本山セントルイス、デトロイト、オハイオ(NWF)、AWA、NWAフロリダ、ルイジアナ‐ミシシッピ‐オクラホマのNWAトライステートの各テリトリーをサーキット。いささか使い古された表現ではあるが、全米のタッグ王座を“総なめ”にした。  マードックとのコンビを解散し、シングルプレーヤーに転向後はベビーフェースに方向転換し、アメリカでもっともファイトマネーを稼ぐスーパースターのひとりに変身した。  いまでも語り草となっている――というよりもアメリカのプロレス史に残る歴史的なワンシーン――ローデスの“正統派転向”のドラマは、いまから41年まえ、フロリダ州タンパで起きた。  その日のメインイベントは、ローデス&パク・ソン対エディ&マイクのグラハム親子のタッグマッチ(1974年5月14日=フロリダ州タンパ、フォート・ホーマー・アーモリー)。試合途中、ローデス(この時点ではヒール)のパートナーの“韓国の巨人”パク・ソンとマネジャーのゲーリー・ハートが突然、ローデスに襲いかかり、イス攻撃と鉄柱攻撃でローデスを血だるまにした。  これに怒った観客が暴動を起こし、地元タンパの警官隊が出動。興奮してリングに飛び込んだ10数人の観客が半失神状態のローデスを抱き起こし、ドレッシングルームまで運んでいったという“伝説”がある。これが“アメリカン・ドリーム”誕生の瞬間だった。
ダスティ・ローデス

こちらもありし日のダスティ・ローデス

 ローデスは、ブルーカラー=労働者階級育ちのバックグラウンドをプロレスラーのキャラクターとしてアダプトし、南部なまりまる出しのジャイブ・トークjive talkのおしゃべり、ホワイト・ニグロ・スタイルwhite negro style(白い黒人スタイル?)の身ぶり手振りとコミカルな動き、ポット・ベリーpot belly(大きなおなか)と腹部にある赤いシミblotch、バイオニック・エルボーと呼ばれたエルボードロップをトレードマークに、白人ファン層からも黒人ファン層からも愛さる存在に変身した。  もし、ローデスが均整のとれた八頭身のボディービルダー・タイプの美男子――つまり、リック・フレアーのルックスとハルク・ホーガンのボディーの持ち主――だったら老若男女に支持されるスーパースターにはなっていなかったかもしれない。  ニックネームは“サン・オブ・ア・プラマー(配管工の息子)”から“マン・オブ・ピープル(みんなの人気者)”へ、そして“アメリカン・ドリーム”へと進化していった。  ハーリー・レイス(1979年8月21日=フロリダ州タンパ、1981年6月21日=ジョージア州アトランタ)、リック・フレアー(1986年7月26日=ノースカロライナ州グリーンズボロ)を下しNWA世界ヘビー級王座を通算3回獲得したが、いずれも短期間でベルトを手放した。  これはセントルイスのサム・マソニックNWA会長(当時)がローデスのような典型的なショーマンを好まず、長期政権型のチャンピオンの“人選”から外れたためといわれているが、じっさいにはローデスはチャンピオンベルトを必要としないスーパースター、チャンピオンベルトを腰に巻いていても、巻いていなくても、必ずメインイベントのポジションで試合をするピープルズ・チャンピオンだった。  現役時代のライバルは、アブドーラ・ザ・ブッチャー、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、“スーパースター”ビリー・グラハム、ケビン・サリバン、ニキタ・コロフ、リック・フレアー、タリー・ブランチャードら。  合計“300回以上”対戦したといわれるレイスとのNWA世界タイトルマッチ・シリーズよりも、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで実現したビリー・グラハムとの3回のシングルマッチ(1977年9月26日、1977年10月24日、1978年8月28日)をローデスのベストマッチとするマニア層も多い。  日本のプロレスとのかかわりも深く、国際プロレス(1971年、1972年)、全日本プロレス(1975年)、新日本プロレス(1979年~1992年=10回来日)、ZERO-1(2004年)の4団体のリングに上がり、合計15回来日。新日本プロレスのリングでは、アメリカでは実現しなかったボブ・バックランド、アンドレ・ザ・ジャイアントとの“夢のシングルマッチ”がおこなわれた。  1985年、NWAクロケット・プロモーション(ノースカロライナ州シャーロット)の役員に就任してからは現役レスラーとプロデューサーのマルチ・プレーヤーとして手腕を発揮し、“スターケード”“グレート・アメリカン・バッシュ”などのスーパーショーを企画。ウォー・ゲーム、スキャッフォールド・マッチ(ハシゴ・マッチ)、バンクハウス・ブロールといった数かずのデスマッチ、ギミック・マッチを発案した。  90年代はWCWとWWEの2大メジャー団体を往復し、2001年にWCW崩壊後は新団体TNA(2003年~2005年)でプロデューサーをつとめていたが、2005年にWWEに復帰。2007年に“WWEホール・オブ・フェーム”殿堂入りし、近年はWWEの下部リーグNXTで新人育成にたずさわっていた。  さる6月10日、フロリダ州オーランドの自宅で倒れ、翌11日、帰らぬ人となった。享年69。6月17日、ローデスのふたりの息子でWWEスーパースターのダスティン(ゴールダスト)とコーディ(スターダスト)を喪主に、タンパのセント・ローレンス・カトリック教会で近親者、関係者のみが出席しての葬儀がおこなわれたが、その直前にTMZネットワークのネット番組で、ミッシェル夫人が救急車を呼んださいの“録音テープ”が無断でオンエアされ物議をかもした。  ダスティ・ローデスは、天国へ旅立ったあとも“アメリカン・ドリーム”でありつづけた。God Bless “American Dream”――。
斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ ※「フミ斎藤のプロレス講座」第42回 ※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。
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