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『日本のいちばん長い日』公開までに観ておきたい終戦映画3本

◆天皇の「御聖断」よりも「全陸軍の方針」  今年は戦後70年――。  安倍首相が8月に発表する「談話」に世界的な関心が集まるなか、エンタメ分野でも戦後70年と銘打った映画やドラマで持ち切りとなっている。  なかでも注目株は、役所広司、本木雅弘ら豪華キャストを迎え、終戦前夜の緊迫した1日を描く歴史超大作『日本のいちばん長い日』だ。  せっかくなのでこの機会に、前もって鑑賞しておくと本作が2倍、3倍楽しめる(?)終戦を舞台にした映画3本を紹介したい。 日本のいちばん長い日 まず1本目は、オリジナルの’67年版『日本のいちばん長い日』。  半藤一利(当時は大宅壮一名義)の同名原作を40年以上も前に映画化した本家本元で、三船敏郎が主役の阿南陸相を演じたことで知られる2時間30分超の濃密な群像劇である。8月14日昼の御前会議から翌15日正午の玉音放送までのちょうど24時間を追う設定は今回のリメイク作でも同じだ。  ’67年版の最大の見所というか特徴は、とにかくコテコテに「男臭い」ことである。  血気盛んな若い将校たちの「怒声」と「絶叫」が飛び交い、観ているだけで暑苦しいことこの上ない。阿南陸相が、昭和天皇による終戦の「御聖断」が下った御前会議から陸軍省に帰ると、将校たちが「大臣が帰って来たぞ!」「結果をお聞かせ願いたい!」と目をギラつかせて取り囲む。その様子は、まるで集団リンチの一歩手前だ。阿南が「御聖断」の経緯を伝えても「戦争継続は全陸軍の方針のはずです!」と言って聞かない。「不服な者はこの阿南の屍を越えていけ!」と威圧してようやく収拾するという始末なのである。  この将校たちの一部から、終戦阻止のクーデター首謀者が現われるのだが、要するにこのコテコテの「男臭さ」の正体とは、天皇の「御聖断」よりも「全陸軍の方針」を優先するセクショナリズム(割拠主義)ゆえの狂気なのである。  彼らは、近衛師団長が決起に応じないことが分かるやいなや拳銃と軍刀で殺害。さらには師団命令を偽造(!)して近衛歩兵連隊を率いて皇居を占拠する(いわゆる宮城事件)。そして、玉音放送を止めようと「録音盤」を必死になって探すのだ。もう軍規もクソもなくて無茶苦茶である。  厚木基地の司令の台詞はもっと分かりやすい。副長から終戦近しとの報告を受けても、「腰抜けの重臣が何を決めようと、俺が司令をしている限りこの厚木基地は最後まで戦う」といって敵機動部隊の撃滅を誓うのだ。  つまり、このやたらに威勢の良い連中は、口では「国体護持」と言いながら、内心は「陸海軍の存亡」が第一で、「国家」も「国民」も二の次というかそもそも眼中にないのである。  海軍反省会の弁を引けば、「自分の組織が第一」「海軍あって国家なし」というわけだ(澤地久枝、半藤一利、戸高一成『日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より』岩波書店)。  これは陸軍もまったく同様で例外はない。この「狂気」こそが日本の戦争以上に問題であったことを投げかけているのだ。 ◆開戦に反対した「一人の人間」 太陽 2本目『太陽』(’05)は、初めて昭和天皇を主役にした画期的な作品である。  昭和天皇役を務めたのはイッセー尾形。  ひと言でいえば、この映画は、昭和天皇をとことんまで「一人の人間」として描き切ることで、われわれ日本人が先入観として持つ「天皇像」とのギャップを浮き彫りにするものだ。  その昔、日本の統治権力のエリートたちは、天皇を支配の道具とみなす一方で、一般国民には天皇を天照大神の子孫と崇めさせるダブルスタンダードの支配体制を取っていた。昭和天皇がやおら侍従長(佐野史郎)に「私の身体も君と同じだよ」と言い、「存じかねます」と戸惑う侍従長に「まあよかろう、怒るな。冗談だよ」と返すシーンにそれが示されている。 「神格化」は、戦中には「大元帥陛下」、戦後には「戦争犯罪人」という二つの虚像を生み出した。  しかし、昭和天皇は、開戦前に明治天皇の御製歌を引用して戦争に反対し、戦局が行き詰ると終戦の「御聖断」を下して戦争を終わらせた「常識」の持ち主だ。劇中でぽつりと「みなみなを思うゆえにわたしはこの戦争を早く止めることができなかった」と呟いたように、開戦へと向かう巨大な潮流の中にいた非力な「一人の人間」であると同時に、終わらせ方が分からない無責任な国民と政治家に代わり戦争に終止符を打った勇気ある「一人の人間」でもあるのだ。  半藤は「あの時はたまたま昭和天皇という冷静な人がいて、鈴木貫太郎首相、阿南惟(これ)幾(ちか)陸軍大臣といういい役者がそろっていた」から終戦にこぎ着けたという(「【自作再訪】半藤一利さん『日本のいちばん長い日』 歴史の『ウソ』常識で判断」2014年5月26日付産経ニュース)。これが真実なのだろう。 ◆ダブルスタンダードに逆襲されるエリートたち 終戦のエンペラー 3本目の『終戦のエンペラー』(’12)は、ご存知トミー・リー・ジョーンズがマッカーサーを演じたハリウッド映画で、原作にないラブロマンスの追加など色々と批判が多い作品だが、「御聖断」についてはちゃんと触れている。ストーリーは、ボナー・フェラーズ(マシュー・フォックス)が、マッカーサーから天皇の戦争責任の有無を明確にするため10日間で関係者を調査せよ、との無理難題を命じられるというものだ。関係者の一人である近衛文麿(中村雅俊)は、確信して言えることと前置きし「日本は戦争の熱に侵されていた。私もその一人だった」と述べる。フェラーズは、近衛を含め誰も責任の所在を把握していないことに唖然とする。木戸幸一(伊武雅刀)が「御聖断」に言及するまでは。  ここで大きな山場となるのは、『太陽』でも描かれた天皇とマッカーサーとの会見だ。  昭和天皇(片岡孝太郎)は会見に臨んだ理由をこう話す。「私自身をあなた方に委ねるためです。戦争遂行に関する全責任は私にあります。従って懲罰の一切を受けるのは、私個人であることを希望します。日本国民ではありません」――これはほぼ史実通りである。  このすべてを背負おうとする態度に感銘を受け、マッカーサーは後年天皇のことを「日本の最上の紳士」と評した。そして、日本人全体については「12歳の子ども」といい、天皇とは区別した。「天皇は私が話合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」(ダグラス・マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳、中公文庫)という発言もそこから来ている。  では、誰が日本を戦争に導いたのか。  半藤曰く。「軍が主導してナショナリズムを煽ったと戦後ではよく言いましたけれど、当時の実態としては、国民は喜んで軍の主導するナショナリズムを受け入れていたんです」(半藤一利、保阪正康『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』東洋経済新報社)。  つまり、日本全体を覆い尽していた「戦争の熱」である。  少し話は戻るが、それに拍車を掛けたのが、実は例のダブルスタンダードなのだ。 「神州不滅」「無敵皇軍」という言葉を真に受けた者たちは、当然「妄想の世界」の方が正しいと信じ、現実主義的な考え方を取る者たちを「国賊」「非国民」とみる。  戦時国際法を無視し「生きて虜囚の辱めを受けず」を不文律として、一般国民にまで押し付けたエリートたちは、結局のところ「終戦の阻止」という形で彼らから逆襲されることとなったのだ。  これが’67年版のメッセージであり、他の2本にも共通する歴史の皮肉といえる。 文/真鍋 厚
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