引退した天龍源一郎。“テンルー”と呼ばれるアメリカでの活躍とは?
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
天龍源一郎が、プロレスラーとしての39年間の現役生活、相撲時代から数えるとじつに51年間におよぶ格闘人生についにピリオドを打った。
“天龍”の英語の発音はテンルー。アメリカ英語には天龍源一郎の“龍RYU”という音がない。天龍はテンルーで、源一郎はゲニチロー。アメリカ人レスラーの多くは、リスペクトの気持ちをこめて天龍をグレート・テンルーと呼ぶ。
いまではあまり語られることのないエピソードだが、天龍はルーキー時代に4回にわたる長期のアメリカ遠征を経験している。プロレスラーとしてデビューしてから最初の5年間のうちの約3年間を日本とアメリカを往復しながら過ごした。ちょっと意外な感じではあるが、天龍のアメリカ生活は、師匠のジャイアント馬場やライバルだったジャンボ鶴田のそれよりもはるかに長かった。
デビュー戦は日本のリングではなくて、ドリーとテリーのザ・ファンクスからレスリングの手ほどきを受けたテキアス州アマリロでのテッド・デビアス――のちのWWEで“ミリオンダラー・マン”として一世を風びした――とのシングルマッチだった(1976年=昭和51年11月13日)。
同年12月、プロレスのリングでの異例の断髪式のため一時帰国。12月7日、東京・日大講堂――このアリーナのルーツは戦前の旧両国国技館――で大銀杏の断髪式をおこない、12月21日、本格的なアメリカ武者修行のため再渡米した。
このときのアメリカ・ツアーは76年12月から翌1977年(昭和52年)6月までの約半年間。“凱旋帰国”しての日本国内でのデビュー戦ではジャイアント馬場とタッグを組み、マリオ・ミラノ&メヒコ・グランデとタッグマッチで対戦(77年6月11日=東京・世田谷区体育館)。帰国直前にアメリカで馬場、鶴田と合流し、テスト・マッチとして数試合を消化してからの正式なデビューだった。
天龍の国内デビュー後、同年7月には元幕下の福ノ島(キング・ハク=新日本プロレスのプリンス・トンガの父)、10月には元幕内の大ノ海(石川敬士)がプロレス転向を表明した。いまになってみれば、石川とハクのプロレス転向は“天龍効果”だったといえるかもしれない。
キャリア1年のルーキーだった天龍は、この年の12月、ロッキー羽田(故人)とのコンビで『世界最強タッグ』の前身の『世界オープン・タッグ選手権』に出場したが、公式リーグ戦・8戦0勝7敗1引き分け(高千穂明久&マイティ井上とドロー)という成績で最下位に終わった。
いまでこそ“天龍チョップ”といえば、ものすごい音を立てて相手の胸板をえぐるド迫力の逆水平チョップだが、この時代に天龍が得意にしていた“天龍チョップ”は相撲スタイルの突っ張りだった。この突っ張り、突っ張りの連発はあまり迫力がなく、観客から失笑を買うこともあった。
通算3回めの長期アメリカ遠征は、1978年(昭和53年)8月から1979年(昭和54年)10月までの1年2カ月間。NWAジョージア、サンフランシスコのビッグ・タイム・レスリング(ロイ・シャイアー派)、NWAフロリダを転戦した。サンフランシスコでは、フリーの立場でアメリカに来ていた石川と約3カ月間、タッグを組んだ。
4回目のアメリカ遠征は、1980年(昭和55年)2月から1981年(昭和56年)5月までの1年3カ月間。このときはNWAフロリダ、NWAジョージア、当時はミッド・アトランティック・エリアと呼ばれていたNWAクロケット・プロモーション(南北カロライナ州、バージニア州、ウエストバージニア州)といった南部マーケットを長期ツアー。ジョージアではマスクマンにも変身。81年2月、日系レスラーのミスター・フジとのコンビでNWAミッド・アトランティック・タッグ王座を獲得した。
最初の2回のアメリカ遠征はプロレスを学ぶための“基礎編”で、3回めは“修行編”。4回めの長期遠征は、すでにメインイベンターのポジションでの本格的なツアー活動だった。通算3年間にわたるアメリカ生活は、元幕内力士の天龍を身も心も――英語に不自由しない国際派の――プロレスラーに変身させた。
全日本プロレスに在籍していた14年間については、(スペースの都合から)ここではあえて言及しない。ジャンボ鶴田とのコンビは鶴龍コンビで、阿修羅・原とのコンビは龍原砲。キーワードは“天龍革命”“天龍同盟”。三冠ヘビー級王座通算3回獲得、世界タッグ王座通算5回獲得。『世界最強タッグ』3回優勝(1984年、1986年=パートナーはジャンボ鶴田、1989年=パートナーはスタン・ハンセン)という実績がすべてを物語っている。
天龍は1990年(平成2年)5月、40歳で全日本プロレスを退団し、新団体SWS(スーパー・ワールド・スポーツ)に移籍。現役レスラーと団体プロデューサーのふたつの顔を持つようなった。SWSは同年10月、WWEとの業務提携を発表し、1991年(平成3年)3月と12月に2回、両団体の合同興行として東京ドーム大会をプロデュースした。
しかし、メガネースーパーの資本力をバックに“新メジャー団体”としてうぶ声をあげたSWSは、発足からわずか2年1カ月後、親会社の撤退―活動休止という形でその短い歴史にピリオドを打ち、天龍は1992年(平成4年)7月、新団体WARを設立した。SWSの消滅でWWEとの業務提携もそのままフェードアウトするものと思われたが、WWEサイドはあくまでもテンルー個人との関係を尊重した。
これもまた、いまとなってはあまり語られることのないエピソードだが、天龍は翌1993年(平成5年)、WWEのPPVイベント“ロイヤルランブル93”(1月24日=カリフォルニア州サクラメント、アーコ・アリーナ)に単身出場。エントリーナンバーは9番で、試合開始のゴングから14分経過の時点でリングに上がり、27分29秒、アンダーテイカーにオーバー・ザ・トップロープで場外に落とされた。約13分間の出演シーンのなかで、天龍はリック・フレアー、テッド・デビアス、ジェリー・ローラー、バーサーカーらの胸板に“天龍チョップ”をぶちかました。
90年代前半、というよりも平成のプロレス界は“多団体時代”を迎えていた。1989年(平成元年)10月、大仁田厚がFMWを旗揚げし、90年にはSWSが発足。1991年(平成3年)1月には“第2次”UWFが解散し、プロフェショナル・レスリング藤原組(藤原喜明派=同年2月発足)、UWFインターナショナル(高田延彦派=同年2月発足)、リングス(前田日明派=同年3月発足)の3団体が誕生。SWSも92年6月の活動休止後、WAR、NOW、PWCの3派に分裂した。
WWEは、天龍を“細分化”した日本市場のキーパーソンととらえた。連続ドラマの登場人物ではない天龍の“ロイヤルランブル93”への出場はやや唐突な印象を与えたが、PPVのロケーションとなったサクラメントでは天龍、ビンス・マクマホン、パット・パターソン、ゴリラ・モンスーンらが出席してのトップ会談が実現した。
“ロイヤルランブル93”開催から2日後(1月26日)、WWEはTVテーピングがおこなわれた同州フレズノで記者会見を開き、天龍=WARとの業務提携をアナウンスした。ビンスは、アントニオ猪木でもジャイアント馬場でもないジャパニーズ・プロモーターとのビジネスを求め、テンルーの大相撲出身という特異なバックグラウンドに興味を持った。
日本国内では、1993年3月に東北6県を活動エリアとする国内初のローカル団体、みちのくプロレスが誕生。4月には“伝説”となった全日本女子プロレスの創立25周年記念興行として『夢のオールスター戦』横浜アリーナ大会が開催された。4月18日、“プロレスの父”力道山の宿敵だった“柔道の鬼”木村政彦が死去(享年75)。5月に――のちにプロレスからMMAに派生していく土台となった――パンクラスが発足し、アメリカでは同年11月、“第1次”UFCが出現した。
天龍が“ミスター・プロレス”としての道を歩みはじめたのもこの年だった。 長州力とは2回対戦(新日本プロレスの1・4東京ドーム、4・6両国国技館)して1勝1敗。藤波辰爾との2度のシングルマッチ(新日本の9・26大阪城ホール、WARの12・15両国国技館)も1勝1敗。橋本真也(WARの6・17日本武道館)、蝶野正洋(WARの9・12幕張)とのシングルマッチは、いずれも天龍がフォール勝ちを収めた。
翌1995年(平成6年)の新日本1・4東京ドーム大会ではアントニオ猪木との初対決が実現し、天龍は十八番パワーボムで猪木を完全フォール。同年5月5日にはFMWの川崎球場大会で大仁田厚との“有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ”がおこなわれ、天龍が大仁田を下した。この試合も“決まり手”はパワーボムだった。いずれもいまから20年もまえのできごとだが、オールドファン――たとえば筆者のような――にとっては、まるできのうのことのようでもある。
1950年(昭和25年)2月2日、福井県勝山市北郷町生まれ。本名・嶋田源一郎。1963年(昭和38年)12月、13歳で二所ノ関部屋に入門し、中学2年生のときに東京の墨田区立両国中学に転校。1964年(昭和39年)1月、14歳の誕生日の1カ月前に初土俵。1970年(昭和45年)9月場所で幕下優勝。1971年(昭和46年)9月場所で新十両に昇進し、関取となったときに四股名を島田から天龍に改めた。
1973年(昭和48年)1月場所で新入幕。当時の相撲雑誌には「大横綱・大鵬を慕って二所ノ関部屋に入り、名伯楽の親方(元大関・佐賀ノ花)に育てられ、大関・大麒麟の胸を借りて強くなった」とある。幕内在籍は16場所で、最高位は東前頭筆頭。
1975年(昭和50年)秋場所終了後、部屋騒動の“押尾川事件”に巻き込まれた。天龍は元大麒麟の押尾川親方と行動をともにしたが、二所ノ関部屋からの離脱を希望した16力士のうちの6力士が二所ノ関部屋に差し戻され、天龍もそのなかのひとりだった。これが天龍にプロレス転向を決意させた直接の原因だったといわれている。
1976年(昭和51年)秋場所、東前頭十三枚目で8勝7敗で勝ち越しの成績を残し、九州場所の番付編成会議がおこなわれる日の朝、二所ノ関親方(元関脇・金剛)が天龍の廃業届を提出し、天龍の相撲生活が終わった。天龍と当時の二所ノ関親方はひとつしかトシが離れていない同年代で、相撲取りと親方の関係ではなかった。
天龍はこの年の10月5日、正式に全日本プロレス入団を発表した。昭和30年代から40年代にかけて活躍した豊登以来、22年ぶりの幕内現役力士のプロレス転向と騒がれ、年齢もまだ26歳と若かったこともあり、大新聞もこのニュースを取り上げ大きな話題になった。
“部屋騒動”の登場人物だった元大麒麟も元金剛もすでに故人。あれから39年間、天龍はプロレスのリングという“土俵”で現役として闘いつづけてきた。ニックネームは“ミスター・プロレス”だから、大相撲でいうならばまちがいなく“大横綱”なのである――。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第61回
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