番外編その3:「負け逃げ」の研究(8)

 1億円なら1億円をジャンケット業者に預け(あるいはジャンケット業者からクレジットを出させ)、その日・その時の電話番号をもらう。

 バカラ卓には、通常二人一組で、ジャンケットのランナーが坐っている。

 ランナーの席前の卓上には、1億円分の香港ドルのチップが置かれてある。

 実際に自分のカネで博奕(ばくち)を打つ側は、ランナーが読み上げる開かれたカードの数字を、現場から遠く離れた場所で、コンピュータに打ち込む。

 カードの出方が極端に偏り、バンカーなりプレイヤーなりどちらかのサイドが数学上一定程度有利となった際に、現場から遠く離れた場所にいる実際の打ち手が、はじめてベット量とサイドをランナーに告げ、「GO!」の指示を出す。

 これが、「テレ・ベッティング」の仕組みだそうだ。

 それゆえ、バカラ卓に坐るランナーは、ほとんどベットしない。

「フリー・ゲーム(正式な呼称は「フリー・ハンド」)」を続けまくって、約80クー(=手)あるワン・シューでせいぜい2~3クーくらいしかベットしないのである。

 いやそれどころか、5~6シュー(=セッション)程度なら一度もベットしない、なんてことはザラだ。

 カードの出方が偏らないシューだと、一回もベットしていないのに、60クー目くらいで、

「サイパイ(=洗牌)」

 カードを替えて、また新しいシューを始めよ、とディーラーに命ずる。

 有意な確率的優位の出現まで、待つのだ。ただひたすら、待つ。

 これは、「フリー・ゲーム」が無制限に許されているマカオのプレミアム・フロアだから可能な方法なのだろう。

 でもそうすると、ディーラーは賭金がまったく置かれていないバカラ卓でカードを開き続け、ジャンケット・ランナーはその開かれたカードの数字を、ただただ大声で読み上げ続けることになってしまう。

 隣りの卓であろうとも、うるさい。

 困ったものである(笑)。

 こちらが、4か5の「リャンピン」のカードを絞り起こそうともがいているときに、隣りの卓から、

「コン(絵札の意味)」

 なんて掛け声がかかると、もういけません。

 その「呼び込み」に、悪意とか憎悪とかが含まれていれば、よし、やってやる、俺のカネかあんたのカネか、とこちら側でも相応に反応できるのだが、それがない分、余計にタチが悪い。

 早朝のカジノ・テーブルで、落ちていたおカネを調子よく拾っていたわたしの集中が途切れた。

 こんなこと言ってもわからない人は多いだろうが、博奕とは「集中」なのである。

 そして、経験を重ねると、その集中が途切れる瞬間を自覚できることがある。

 このときがそうだった。

 1万HKD(15万円)チップ3枚という、わたしとしてはこの朝大きめのベットをバンカー側に載せていた。

「ハウス、オープン」

 ディーラーがプレイヤー側のカードを起こせ、という意味である。

 開かせたプレイヤー側のカードは、絵札に6。

 プレーヤー側の最初の2枚の合計が6となれば、それが持ち点として確定する。つまりいかなる場合でも、プレイヤー側に3枚目のカードは配られない。

 わたしが伏せられたバンカー側のカードを絞ってみれば、モーピン(=横ラインになにも見えない、1か2か3のカード)にサンピン(三点が現れる6か7か8のカード)。

 願ってもない組み合わせだ。

 これで、持ち点がゼロか1になる組み合わせは、2プラス8、3プラス7か8、の三種類のみ。このケースでは、バンカー側に3枚目のカードが配られる。つまり、セカンド・チャンスがつく。

 一方7以上10未満となる組み合わせは、1プラス6か7か8、2プラス6か7、および3プラス6、の六種類ある。

 もう勝ったみたいなものである(笑)。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(9)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。