樋口毅宏の新作小説『太陽がいっぱい』<クラッシャー佐村編第一話>を特別公開!

フリッパーズ・ギターをモデルにした『ドルフィン・ソングを救え!』が好調の小説家・樋口毅宏。その熱狂冷めやらぬなか、早くも新作小説『太陽がいっぱい』の連載が週刊SPA!で始まった。今度のモデルは「プロレスラー」だ。今回は『太陽がいっぱい』の「クラッシャー佐村」編を特別に公開する。虚実混交で紡ぐオトコの哀愁物語に、震えろ!

「ある悪役レスラーの肖像」第一話


クラッシャー佐村 長い巡業から帰る。自宅の曇った窓はすべて板が打ち付けられている。不慣れな大工のため板は微妙に斜めに傾き、曲がった釘の頭が目立つ。雨戸は晴れの日でも開けたことがない。ぶつけられた生卵により外壁は変色している。荒れ果てた狭い庭には無数の空き缶が転がり、桃の樹はとっくに枯れ果てている。夜中に誰か忍び込んだのか、ジョンの犬小屋は屋根に穴が開いていた。一軒家をぐるりと取り囲むブロック壁には「死ね」や「地獄に落ちろ」など、スプレーによる落書きが後を絶たない。最初のうちはペンキで塗り潰していたが、きりがないのでこの頃は放って置いている。

 正面の玄関に回ると、まるで主を失くしたように家は静まり返っていた。電池を抜いているためチャイム音は鳴らない。佐村はわかっていながら、何度か呼び鈴を押してみた。

 東京駅から乗り付けたタクシーに行く先を告げると、運転手が忌々しい声で「ダンナ知ってる? この辺にクラッシャー佐村の家があるんだって。ちょっとゴミでも放り込んでいこうよ」と無邪気に笑った。バックミラーに影のない男を二度見すると、その後はひとことも喋らなかった。佐村は家に着いてカネを払った後、「頑張ってください」と言われた。すでに五度、似たような経験をしていた。

 佐村は改めて東京の片田舎に建つ自宅を見入る。関東大震災の翌年、後の昭和天皇である摂政宮をステッキ銃で狙った難波大助の実家もこんな風だったかと思う。故郷である山口県熊毛郡で、難波家といえば村一番の大地主だったが、その日を境に国賊の烙印を押された。屋敷の門に青竹を打ち、戸を針金で括り、父の作之進は三畳の間で、半年後に飢死した。「ありゃ天罰じゃ」と、佐村を育てた明治生まれの祖母は、幼い彼に子守唄のように聞かせた。他と比べるものを知らぬ彼は、まるで国賊の象徴となった我が家を眺めるたび、祖母のむかし語りを思い出した。

 二年前の晩夏、佐村は初めて真日本プロレスのリングに上がり、「こんばんは」と挨拶を済ませてから、カルロス麒麟(きりん)に一騎打ちを申し込んだ。テレビ放映翌日、彼のそれまでの苦労を知る、近所の顔見知りは道で会うと目を細め、「応援していますよ」と握手を求めてきた。

 しかしテレビに映る回が増えていくたび、人々は知らん顔を決め込むようになった。日頃から佐村は腹を減らした熊のような人相だったし、酷く寡黙だったため、世間からすればリングを降りた後も、血も涙もない悪人に映ったようだ。

 初の巡業から帰ってきた日は、結婚して二十二年の妻が壁を向いて座っていた。声をかけても応えないので肩に手をやると、年齢より老けた女がわっと畳から飛び上がった。ちょうど電話が鳴って二度転げた。佐村は玄関脇の黒電話を取る。金切り声に受話部から耳を離した。

「やい佐村っ、汚い手を使いやがって! それでも男かっ、恥ずかしくないのか貴様!」

 続く声は怒声と興奮で聞き取れなかった。電話を切るとすぐにまた鳴り響いた。同じ男かと思いきや若い声だった。学生か、行っても二十代半ばだろう。これもまた自らの憤怒に煽られて何を言っているのかわからず、耳の奥まで入ってこなかった。とにかく自分に向けて怒りの礫をぶつけていることはわかった。

 受話器を置く。間を置かず電話が叫び声をあげる。まるで世界中の人が家の電話番号を知っていて、誰かの命令で一斉にかけているのではないかというような錯覚に陥る。人の良い佐村は、向こう側の見えない相手が「切るなよ」と命じるので素直に従っていたが、時計の針が二周するのを見届けると、根本から電線を引き抜いた。以来、佐村の家から呼び出し音は消えた。

 東京のヤジも凄まじいが、田舎のそれはもっと峻烈だ。会場が小さいため、荊の塊のような怒号が至近距離でぶつかってくる。親の仇でもかくはあるまいとする罵詈讒謗(ばりざんぼう)が、はぐれ国プロ軍団――クラッシャー佐村とゴン岸口と東村勇の三人――に降り注いだ。

 国プロ時代、客は年寄りが疎(まば)らで、メインの終わりまで眠るように静かだった。それがどうだろう。同じ会場でもカルロス麒麟の敵役としてリングに上がると、鈴生(すずなり)の観衆はひとりの例外もなく大声を投げ付けてきた。

 佐村は二十年以上に及ぶレスラー人生を通して、肌身で土地の性格を知った。都市と隔絶した集落ほど訛りがきつく、山間部より漁村のほうが客の気性は荒い。茣蓙(ござ)に一升瓶を抱いた溢(あぶ)れ者が時化(しけ)続きの憂さを晴らそうと憎しみに澱んだ目で、今にも背に刃を立ててきそうだった。佐村は宿に着くまで気を許すことはなかった。

「今日もよう入っとるな」

 その日は営業部長の新町悠が会場に駆け付けていた。いつものホクホク顔で、背丈はないが肥大した身体を揺らす。大きな黒縁の眼鏡にせわしく手をやるため、レンズは常に脂が浮いていた。それぞれの詰め所に顔を出し、自分より何倍も大きなレスラーを直立不動にさせて檄を飛ばした。

「前谷、おまえもっとガツガツやれや! 誰もおまえに御行儀の良さなど求めとらんがな。あの毛唐はおもろないから今シーズンで切るさかい、かたわにでも何でもしたれや」

「石智、そないデカい図体してちっさい試合すんな。おまえにはクロンボの血が混じっているんやから、もっと派手に暴れたりや。そのチリチリの毛ェ、燃やしたるど」

 そこに巡業に帯同している山井鉄がやってきた。ふたりは目を合わすことなく、素知らぬふりを通した。佐村はやはり会場裏の通路で、初めて新町と山井の確執を目の当たりにしたときは軽く驚いたものだ。レスラーとフロントが家族のように仲が良かった国プロでは考えられないことだった。

 レスラーあがりで、今は若手から鬼コーチとして恐れられ、テレビ放映があるときは実況席に腰を下ろし、プロレスの技を努めてわかりやすく解説する山井。同志社大学を出た後、銀行に勤めたが、カルロス麒麟に魅せられて真日のフロント入りすると、アイデアマンとして次々と黄金カードを考案し、全国津々浦々の会場を膨れ上がらせた新町。自他ともに認める麒麟の敏腕マネージャーであり、外タレの呼び屋からも一目置かれていた。

「今日はテレビが来とるからな。セコンドかて気ぃ抜かずに映っとけ。それ見た女がおまえを出待ちして、おめこハメ放題やがな」

 堅物の山井が去っていくのを確認してから、新町はひそひそ声で、前谷と石智に人差し指と中指の間に親指を挟んだ拳を突き出した。一拍置いてけたたましい笑い声に、ふたりは何が可笑しいのかわからなかったが、追従して頬を緩めた。

 新町は御機嫌だった。カルロス麒麟とはぐれ国プロ軍団の抗争劇、ドラゴン菅野対パワー吉田の名勝負数え歌、子供に大人気のフライングタイガーの豪華三本立てで、地方のプロモーターはいくら値を吊り上げても争うように興行権を買ってくれた。会場はどこも人いきれで立錐(りっすい)の余地もない。

 新町が東京大阪の大会場以外にも顔を出すようになったのは、地元の興行主から接待を受けるためというもっぱらの噂だった。新町はテレビに映り出した若いレスラーを呼び付け、余興を無理強いするなどして権勢を振るい、好きなだけ高い酒を御馳走になった後、帰り際には謝礼金(バックマージン)を包んでもらう。女を用意する興行主もいるという。プロレス界はレスラーのみならず、関わる者全員、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の住人だと小耳に挟んでいたが、佐村は真日に来てようやくそれを事実と知った。

 新町は下卑(げひ)た笑みを浮かべたまま、意味ありげに佐村の肩を叩くと、花道に通じる扉を開けて出て行った。一瞬開いた扉から観客の熱気が伝わってくる。

「おとう、今日はどうなる」

 岸口が声をかけてきた。国プロ時代から苦労を共にし、観客へのアピールが著しく下手な佐村のアシスト役に徹してくれていた。上背もなく横幅もさほどでもないが、野次を飛ばす客を黙らせる眼光の鋭さに加え、受け身の上手さは目を引くものがあり、真日のレスラーからの評価も高かった。

「いつものように俺らが賑(にぎ)やかしをやるが……。おとうは麒麟が出たら絡んで、いつものパターンだろう」

 東村が言う。佐村は東村のほうを見ずに頷いた。

 東村は岸口より小さく、一七〇センチもなかったが、トペやトップロープからの空中戦ができるなど、三人の中でもっとも身のこなしが軽かった。虎の仮面を被ったスーパーヒーローと手が合うため、ジュニアヘビー級戦線にシングルで顔を出すまでになった。これは佐村たちにとって少なからず希望になった。三人でひとセットの扱いと覚悟していたが仕事を認めてもらっているのだと思えた。現にこの日の控室は広い。しかもマッサージチェアまで用意されている。レスラーの矜持(きょうじ)を擽(くすぐ)った。

 メインが近づき、佐村は黒タイツに着替える。洗面所の鏡に映る上半身に見入ると、首筋の張りや肩や腕の隆起が、むかしに比べて落ちてきているのがわかった。観客やテレビカメラの視覚を衝ついてカミソリで切った、額のギザギザもめっきり増えた。自分でこっそり刃を当てるときもあるし、対戦相手と縺(もつ)れたときに、割って入ったレフリーが何食わぬ顔で滑らせるときもある。国プロ時代は「金網の鬼」と呼ばれ、デスマッチがあると必ず流血した。血が出ると客は無条件で盛り上がった。試合後はわずかだが臨時手当として「ジュース代」が支給される。若い頃は嬉しくて、しかし少量の出血でもらうには申し訳なく、深めに切るといつまでも血が止まらなくなって、卵の殻の内側にある薄い膜を貼って応急処置をしたことを思い出す。

 佐村は不惑の歳を過ぎて観客の求めるものが以前よりわかってきたが、今の自分なら国交プロレスを救えたとまでは言わないものの、違う道があったのではないかと、詮無(せんな)い空想に囚われることもしばしばだった。

 ノックの音がして、佐村は現実に引き戻される。

「佐村さん、今日は社長が東村さんからコブラで取る、で」

 レフリーのタフガイ高梨が伝える。「コブラで取る」というのは、「麒麟が東村からコブラツイストでギブアップを取る」という意味だ。

「いつもの流れで、十分のコールを合図に。それと試合が終わった後なんだけど……」

 高梨の目に悪戯っぽい色が浮かぶ。本題はここからのようだ。

「社長を担いで、ここに連れてきて」

 緊張感が走った。

「どういうことですか」

 岸口が高梨に詰め寄る。

「佐村さんたちが負けた腹癒せに社長を拉致、監禁するの」

 高梨は、不服でもあるのかと言いたげだ。

 日頃から外国人レスラーの世話係を兼務する高梨は、荒くれ者の連中から舐められぬようバーベルを欠かさない。肩から胸の盛り上がりはたいしたもので、こうして選手の控室を行き来して打ち合わせの最中に、癇癪(かんしゃく)を起こしたレスラーのとばっちりを受けぬよう、日頃から身体を鍛えていた。

 佐村たちに拒否権はなかった。当日の試合の流れ、アングル、その後の展開といったすべての事項が、雇い主である真日本プロレスが決めている。

「いいアイデアですね。次に繋がりそうだ」

 東村が当て擦る。

「新町さんのネタさ」

 高梨が扉を閉めた。行ったと思ったらすぐにまた扉が開いて、「あ、ちょっと掃除しといてよ。社長ああ見えて綺麗好きだから」と言い残して足早に去った。

 三人には広すぎる控室が、石のように凍り付いた沈黙で満たされた。

※<クラッシャー佐村編>第2話も近日公開予定
※『太陽がいっぱい』は週刊SPA!にて好評連載中

【樋口毅宏】
ひぐちたけひろ●’71年、東京都生まれ。’09年に『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。新刊『ドルフィン・ソングを救え!』(マガジンハウス)、サブカルコラム集『さよなら小沢健二』(扶桑社)が発売中。そのほか著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』など話題作多数。なかでも『タモリ論』は大ヒットに。

イラスト/勝亦 勇

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