「生き抜く覚悟」と「平和の尊さ」を学べる平和祈念展示資料館(4)――ダモイ(帰国)と言われ連れられた先は?

ラーゲリ(収容所)の室内と食事時の様子(同館の許可を得て当社撮影)

 次は、戦後強制抑留コーナーである。その代表例はシベリア抑留であり、その経緯を歴史書の記述などから説明しよう。  ソ連は米英の首脳と戦後処理を協議したヤルタ会談の密約をもとに、昭和20(1945)年8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、翌日以降、満州や朝鮮、南樺太、千島に侵攻した。  これらの地域にいた日本人は、軍人や民間人を含め約200万人。ソ連軍の攻撃や略奪、婦女子は暴行を受け、多くの犠牲者がでた。  その後、ソ連との間に休戦協定が結ばれたが、武装解除した日本の軍人や満蒙開拓移民団など60万人以上の人がシベリアなどに連行され、長期間過酷な労働に従事させられたため6万人以上が亡くなった。  強制抑留者には女性も5000人ほどいたとされ多くが従軍看護婦だったが、帰国後、証言される人が少なく抑留下での実態は不明という。

支給された黒パンを手製のモノサシや天秤で公平に切り分ける

 強制抑留者の様子について、この資料館のパンフレットでは次のように記す。 「日本の軍人・軍属や一部の民間人は、千人単位の大隊に編成された後、ソ連兵から『ダモイ(帰国)』と言われ、貨物列車や船、徒歩などで移動を命じられました。しかし、着いた先は日本ではなく、北方のシベリアやモンゴルなどの地域でした」 「抑留者は、様々な労働を課せられました。労働の内容は、森林伐採、鉄道建設、道路工事、荷役、建築作業、農作業、鉱山発掘など……。それぞれの労働には、一日ごとのノルマ(割り当て)が課せられ、達成できなかった場合は、元々少ない食事の量をさらに減らされるといった厳しい処罰を受けました」  抑留者の一日の食べ物は、黒パン350グラム(時には1枚の時も)と雑穀で作った薄いお粥(カーシャ)やスープが少しだけであり、空腹を満たすために雑草や木の皮、昆虫も食した。  この強制抑留コーナーで、ひときわ目につくのは、強制労働に従事させられた抑留者のラーゲリ(収容所)室内での食事時の様子を再現した展示だ(上の写真)。  黒パンはまとめて支給されたため、手作りしたモノサシや天秤で測って公平に切り分けたという。その切り分けを、目を丸くして覗き込む抑留者を模した人形の表情がどことなく生き生きとしており、悲惨さだけを煽る展示とは一線を画している。  その他に、白樺の木を削って作ったりした手製のスプーンなどの食器も展示されており、極限状況の中でも生き抜くのだという覚悟が伝わってくる。また、木片を削って作った手製の将棋の駒や麻雀牌もあり、休息時の過ごし方が分かる。(続く) (取材・文=育鵬社編集部M)
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