日本の歴史 本当は何がすごいのか【第8回:鑑真は日本への渡航を、なぜあきらめなかったのか?(続)】

唐招提寺金堂(縮小)

9世紀初めには関西圏の人口の三分の一は渡来系だった!?

 では、彼ら(「遣日使」)は何のために日本にやってきたのでしょうか。ほかでもありません。日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。  鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名ですが、鑑真がなぜこれほどに日本に執着したのか。聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。鑑真だけではありません。インド人、ヴェトナム人、ソグド人の僧侶も日本の仏教を学びにきています。  奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。だから、遣隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。正確には交流使というべきだと思います。  こういうこともあります。そもそも日本は海の向こうから来た人が日本の風土や伝統に同化し、日本人を形成していったという歴史があります。その後も大陸や朝鮮半島から移ってくる人が絶えたわけではありません。天智天皇2(663)年の白村江の戦いに敗れ、百済が滅亡したときには、たくさんの百済人が日本に亡命してきて、それを関西と東国に住まわせたという事実もあります。9世紀初めには関西圏の人口の三分の一は渡来系だったという推定もあります。  その一端を示すものに、『新撰姓氏録』があります。弘仁6(815)年に編まれた、いってみれば戸籍簿で、現在残っているのはその一部ですが、そこに記載されている1100人ほどのうち、少なく見ても82人は渡来系なのです。国際化はいまにはじまったことではありません。天平の都とその界隈は国際色豊かだったのです。  人間は文化的に低いところから高いところに流れる。これは人口移動の鉄則です。それは現代国際社会の状況を見てもうなずけることです。  日本にこれほどたくさんの人々が移ってきたというのは、日本の文化が高く評価される水準にあったことを証明しているのです。 (出典/田中英道著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
日本の歴史 本当は何がすごいのか

知っていますか? 日本の“いいところ" 伝統と文化の魅力がわかる14話

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