消え行く「東京の屋台」の歴史――そこには人々が生き抜くための戦いがあった
さらに、屋台が歴史の表舞台に登場して隆盛するきっかけとなったのが、大正12年の関東大震災であるという説もある。死者行方不明者数10万人以上という甚大な被害をもたらした震災だ。
「もともと大正時代の日本は、第1次世界大戦の軍需を受けて『大戦景気』といわれるバブルに沸いており、貧乏たらしく屋台を引く必要なんてありませんでした。そんな状況を一変させたのが、戦後恐慌に続く関東大震災です」(同)
既存の飲食店が壊滅状態となり、元手のかからないラーメン屋台の数が急速に増えていったという。
しかしその後、太平洋戦争の影響で物資と食料などの厳しい統制が行われ、屋台もほとんどが店じまいを余儀なくされる。戦後の闇市が次のターニングポイントだ。
「まずは屋台というよりはバラックを形成して、それぞれ商売を始めたといわれています。当時は物資調達のカギを中国人が握っていたため、中国人になりすましてリヤカーを引くスタイルが横行しました。他には、仕事にあぶれた人たちにリヤカーを貸し出す“屋台貸し”として成功したケースもあったようです」(同)
木村氏も「戦後の闇市の屋台が現在の源流」と分析する。
「上野や新宿、池袋などで『テキヤ』と呼ばれる露天商の人間たちが、組合をつくってその地域を管理していました。それがGHQのお達しで昭和26年頃に禁止に。そこで組合は、飲食店を区画に振り分けました。区画整理によって『しょんべん横丁』『美久仁小路』なども生まれたわけですが、当然反対する者もいた。彼らは組合には加わらず“流し屋台”として繁華街や路地で商売を始めたんです。それが現在の屋台を形づくった原点といえるでしょう」
日本の屋台の歴史には、人々が生き抜くための戦いがあったのだ。
【木村陽一氏】
都市計画コンサルタント。首都圏総合計画研究所主任研究員。学生時代から屋台のあり方を研究。オープンカフェ常設化など、道路の利活法を都市計画の面から支援している
【中野正博氏】
新横浜ラーメン博物館営業戦略事業部プロジェクト課課長。古今東西のラーメンを自ら食べ歩き、文献を紐解くことで研究を進める国内トップクラスのラーメン史研究者
― 消えゆく[東京の屋台]の今 ―
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