更新日:2022年11月29日 12:01
スポーツ

フレッド・ブラッシー “銀髪鬼”は愛すべき大悪役――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第7話>

 それから1カ月後、こんどは本物のルー・テーズがロサンゼルスにやって来て新チャンピオンのブラッシーとタイトルマッチをおこない、ブラッシーが噛みつきと急所攻撃でテーズからフォール勝ちを盗んだ(同年7月21日、スポーツ・アリーナ=観衆1万3400人)。  テーズとテーズよりもふたつ年下のブラッシーは、セントルイスのレスリング・ジムでは先輩・後輩の関係だった。  ブラッシーとテーズは翌1962年(昭和37年)4月、日本プロレスの『第4回ワールド大リーグ戦』にいっしょに参加した。  ロサンゼルスWWAと力道山の日本プロレスは業務提携を結んでいて、このリーグ戦の1カ月まえ、力道山はオリンピック・オーデトリアムでブラッシーを下し、WWA世界王座を日本に持ち帰ったばかりだった。  ここで“昭和のテレビ史”の残る大事件が起きてしまう。  事件の舞台となったのは力道山&豊登&グレート東郷対テーズ&ブラッシー&マイク・シャープの6人タッグマッチだった(1962年4月27日=兵庫・神戸市王子体育館)。  ブラッシーの噛みつき攻撃でG・東郷が血だるまにされ、この試合をテレビ生中継で観ていた老人4人(6人説もある)が全国各地で心臓発作を起こしショック死するという事件が発生した。  新聞、一般週刊誌をはじめとする活字メディア、テレビのニュース番組で「プロレス中継を中止せよ」との論調が高まった。噛みつき攻撃はたしかにブラッシーの十八番だったが、“大流血シーン”はじつはG・東郷の専売特許でもあった。  この事件のあと、民放連はプロレス中継(とスポーツ中継番組)のあり方を審議し、事件の当事者となった日本テレビはこの年からスタートしたばかりの同番組のカラー放映を中止し、従来のモノクロ放映に戻した。  ブラッシーはロサンゼルスの看板タレントであると同時にニューヨークのスーパースターでもあった。  マディソン・スクウェア・ガーデンでブラッシーがブルーノ・サンマルチノのWWE(当時はWWWF)世界ヘビー級王座に挑戦した2試合は、第1戦がサンマルチノの反則負け(1964年7月11日=観衆1万8981人)、リターン・マッチはサンマルチノがフォール勝ちで王座防衛に成功(同8月1日=観衆1万8875人)。  19歳だったビンス・マクマホンがこのタイトルマッチ2試合をリングサイド席で観戦した。  ブラッシーの38年間におよぶ現役生活のなかで最大のビッグ・イベントは、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムに2万5847人の大観衆を動員した“宿命のライバル”ジョン・トロスJohn Tolosとの因縁ドラマの完全決着戦だった(1971年8月27日)。  噛みつき、チョーク攻撃、目つぶし、急所攻撃しかできない53歳のブラッシーを、ロサンゼルスのファンはとことん愛した。いつまでも変わらないことが愛LOVEだった。
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ブラッシーは、最後の晴れ舞台のため再びニューヨークに向かった
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