エンタメ

小説『孤独のグルメ』望郷篇――第10回「大食漢の混乱と“食べない男”の清潔」



布留(ふる)の店は八幡神社の通りを脇に抜けた静かな住宅街にある。
改築したのだろう、平屋だった店は三階建になっていた。
堂々としたりっぱな店構えだ。
のれんは、変わらず、日本蕎麦・中華そばと刷られている。
もともとは日本蕎麦だったのだけど、中途から中華そばもはじめた。
子供のころ、友だちということ抜きにして、ここの中華そばをしょっちゅう出前でとって食べていた。
陸橋傍の同じ名の店は、後々、めちゃくちゃ高名になった。
あすこも、よい店だ。小学校の五年か六年のとき、一人で出かけてカウンターにすわって、「わんたん」と注文したら、麺のない汁丼が出てきた。
そのとき初めて、「わんたん」は汁物で、麺を入れたのは「わんたん麺」というのだ、と知った。
背を曲げて落胆しているオレを見て、厨房の先代がだまって丼に麺を半分ほどさしてくれた。
あの先代ももうずいぶん前に亡くなった。

オレは店の扉を開けた。中は思ったより広々としている。
真ん中に磨いた石造りの大きな卓があって、壁沿いに四人掛けの卓がある。その奥が小上がりになっていて、四人掛けの卓が縦に二つ並んでいる。
厨房への白のれんから日焼けした顔をのぞかせた布留が
「よぉゴロー君、どしたい」
と威勢のいい挨拶で迎えてくれた。
「近所まできたからちょっと顔みていこうと思って。ここいらはぜんぜん変わらないね」
「でも人の出入りはけっこう多いよ」
四人がけのテーブルで世間話をしていると、黒いニットセーターの若い女性が一人で入ってきて、中央に置いた八人掛けのテーブルの隅に座った。
布留のオバサンがその脇によって何かささやいている。
「……ありがとうございます」女は小さく頭を下げて、
「じゃカレーライスください」
と低い声で注文した。事情がありそうだった。
間をおかず、初老の現場作業服の男と事務員服の女がはいってきて卓についた。
「大中華(おおちゅうか)」と男。
「わたしは普通のラーメンを」と女。
オレはなんとなくミラノかどこかの片隅のビストロにいる気になる。
こんな衒気のかけらもない住宅街の食堂で、カレーライスや中華そばだけ静かに食べるのっていいな。
東京に出てきた人はすぐに「何がおいしい?」「メニューをみせて」と言挙げする。
それがオレには「旨いのは何だ。証拠をみせろ」と脅しているように映る。
どうでもいいじゃないか。そんなこと。

オレは途中の駅地下で買ってきた手提げの紙袋を渡した。
「これ、オフクロサンさんと食べてよ」
「何」
「いや。最中だ。けっこういけるらしいよ」
ここに寄ろうときめたとき、ふと、布留が小学校のころ、この菓子だけにむしゃむしゃと、「うめえうめえ」と五個も十個も食いついているのをおもいだしたのだった。
「もうそんなに最中、食べないよ」と布留は笑った。

「で。ゴロー君、なにかたべていく?」と布留が訊く。
「オレにはカレーそばと天丼をちょうだい。味噌汁はいらないや」
「あいよ」
布留は昔馴染みと会うと、ラーメン屋の大将らしく殊更に声を大きく張る。そこにカレの誇りをかんじたりする。嬉しくなる。
オバサンが変わらぬ笑顔で
「そばに煮玉子いれましょうか」と訊く。
「おねがいします」
オバサンが嬉しそうにうなずいてくれる。
カレーそばに煮玉子は、三十年前にはなかった品目だ。

布留が、勤めていた製鉄会社を退いてこの店の三代目を継いでもう二十数年。
朝六時に起きて仕込みをして、十一時に店を開ける。それからは厨房かフロアで夜九時までで立ちづめのきつい仕事だ。
この男は、いったいどこからその体力を仕入れてるのだろう。というのは、よくゴルフ、テニス灼けして不可分ない筋肉をつけた様子とはことなる、食生活の秘密を、幼馴染のオレはよく知っているから。
「フルはさ、それだけ物を食べなくて、店の料理とかの味はどうしているの?」
「ま、一年にラーメン百杯も二百杯もたべるなんていう、さいきんのラーメン大将もいるけどね。ありゃまともな人間のすることじゃないよ」
「それにしても……」

オレが生涯で出会った極限の偏食家がこの布留だった。
とにかく、肉、魚はもちろん、野菜でも、固形の、形をとどめているものはほとんど口にしなかった。
こどものころ、一緒に旅行などして宿の朝食、夕食のおかずを何もかも口にしない布留に、オレたちは驚愕した。
「すみませんね。生卵を一つ頂戴」
と旅館の仲居さんに頼むオバサンは、当たり前の顔をしていた。そして茶碗のごはんに生卵を割り、布留に食べさせた。
学校の給食も、食パンと牛乳以外はぜんぶ周りの連中にあげていた。
それでいて布留は昔から体育が大の得意で、勝手に野球チームをつくってそこをしめていた。

前に聞いて、忘れられない布留の食生活。
朝は野菜ジュース。 バナナ一本。プラム二粒。ナッツとアーモンド4粒、ヨーグルト。冷たい日本茶数杯。
昼。日本蕎麦か中華蕎麦(具材なし。麺と汁のみ)。牛乳200㎖一本。
夜は、賄いだったり、残った蕎麦(麺のみ)だったり。後、湯豆腐や肉抜きの麻婆豆腐、茹でて生卵を絡めたパスタや卵焼きなど。200㎖牛乳一本。
店が休みの日はいつもの朝食と、昼夜兼用で牛乳2本……その後はビール(大量)。

この食事を、布留は一年三百六十五日、もう何十年も続けている。
凡庸なオレにはとても想像できない世界の住人だ。
その時、訊いたオレに答え、布留は、丁寧に注釈をくわえた。

*ラーメンスープと蕎麦のもり汁の味見は毎朝必ず、絶対におこなう。
*食べられる=好きなものーー卵焼き、大根と豆腐の味噌汁、チーズのゴルゴンゾーラ、シンプルな芋のコロッケ。豆腐も好きな部類。
*自分(布留)は食べ物と同じ位置づけで、牛乳、エスプレッソ、ビールを捉えている。

「物心ついた頃、記憶にあるのは幼稚園に入る頃だから4才か……自分は魚、肉、野菜は全滅だと気づいたんだ」
と、布留はいった。
「それから、ずっと、か」
「うん。いまも何も変わっていない」
「食べずによくそれだけ働けるね」
「働かざるもの食うべからず」
と、布留は低く笑いを漏らして
「それはこのことか、と死んでみせてもいいんだけれどね」
「おもしろくないね」
「うん。おもしろくない」
「オレの暮らしからはずいぶん遠い感じだな」
「ん、ま、ゴロー君の非日常が、ボクの日常、なのかな」

ごゆっくり、と布留はいって厨房にもどっていった。
オレは頭を振って、オバサンがはこんでくれた天丼とカレーそばにとりかかった。
独りで食べる時間を何よりも尊いと確信している自分だが、この男の食べないという性癖が、とても清潔なものにもおもえてしまった。
オレはまた、きょうも混乱した。

All the people we used to know
They’re an illusion to me now
Some are mathematicians
Some are carpenters’ wives
Don’t know how it all got started
I don’t know what they’re doin’ with their lives
But me, I’m still on the road
Headin’ for another joint
We always did feel the same
We just saw it from a different point of view
Tangled up in blue


おれたちの知っていたやつらはすべて
いまのおれたちにとってはまぼろしにすぎない
数学者もいた
大工の奥さんもいた
なんではじまったんだかぜんぜんわからん
やつらが自分たちのくらしをどうしてるかおれはしらん
とはいうものの おれはいまだに住所不定
ころがりこむところをさがしている
おれたちはいつもおなじ感じをしていたんだが
ちがった角度から見ていたんだな
ブルーにこんがらがって



※1『別離』中原中也
※2『I’ve got a feeling』THE BEATLES(片岡義男訳)
※3『ブルーにこんがらがって』ボブ・ディラン(片桐ユズル訳)

(続く)

1
2

孤独のグルメ2

男が一人で淡々とメシを食う姿を描いた人気ハードボイルド・グルメマンガ

●第2巻の第1話を無料公開中

孤独のグルメ 巡礼ガイド3

「孤独のグルメ」ファン必携のガイド本の第3弾が登場! テレビ版Season5~6に登場した名店を紹介。ファンであれば、どこから読んでも楽しめるバイブルです。


ハッシュタグ




おすすめ記事