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小説『孤独のグルメ』――第11回「武蔵野の果ての坂の底。白いイタリアンに我にかえる」

久住昌之氏の原作と、谷口ジロー氏の静謐な作画の組み合わせで描かれるひとりめしの楽しみが共感を集め、現在累計80万部を突破した人気漫画『孤独のグルメ』。日刊SPA!では『孤独のグルメ 望郷篇』と題して、小説篇を連載中(隔週金曜日更新予定)。執筆は、『孤独のグルメ』の初代担当編集者である壹岐真也氏。漫画やドラマとはまた一味違う五郎の哀愁を味わってみてほしい。

【孤独のグルメ 望郷篇 第11回「武蔵野の果ての坂の底。白いイタリアンに我にかえる」 壹岐真也】


撮影/滝本淳助 @takimotonosekai

二子玉川で乗り換えて、等々力の先で大井町線をおりた。
改札をぬけて、踏切を背に商店街をくだる。
この辺、コンビニとかファストフード、牛丼屋がないんだな、と改めて気がづいた。
車輛二台分の道幅。丁寧な仕事で石畳をしつらえた舗道。道の両脇には、和菓子屋、総菜屋、洋品店、小間物屋など小さな個人営業の店舗が礼儀ただしくならんでいる。
オレが住んでる西の郊外とも、またずいぶん趣きがちがう。
東京ってのは、こうしたところが厄介なんだな。
この後、夜の八時から商店街沿いのアンティーク店で、改装のための相談をうけることになっている。
深夜まで話が込み入りそうなので、腹をしっかり作っておきたかった。行く店は決めてあった。
自分みたいな仕事で、一日に何件もの相手先を行き来すると、食事はたいてい初見の店に飛び込みということが多い。
どこで飯を済ませばいいのか、いつもとまどってしまう。
迷いはじめると、それが、オレの、店選びのラビリンス。けっして解決できない永遠の謎になる。

迷ったら、〈味覚地獄〉に陥ってしまうので、とにかく、目についたところに、意を決して入ることにしている。
そんな、立ち迷ったときの、ひとつの逃げ手がチェーン店だ。
立ち蕎麦、牛丼、とか。カレーライス、とか。
なかでも、カレーは、ひとつのチェーン店に決めている。
註文で悩みたくないので、やさいとロースカツのカレー。辛さ2倍。ごはんは
大盛り500g。オレはまた、ここの福神漬けがなぜか好きで、相当量を皿の端に盛ってしまう。それから、追加でラッキョ。値段29円。
卓のウスターソースをカツにじゃぶじゃぶかけて、噛る、咬む、嚥下する。
トンカツを噛る。咬む。嚥下する。
カレーのじゃが芋、人参、玉葱をがつがつ咀嚼する。
顎を大仰に上下させれば、がしがし動かせばそれだけ、頭が軽くなる。脳がらくになる。
店はどこだっていいんだ。量を確認できれば、それ以上の味のことは脳には触れてこない。

地球の夜更けはせつないよ
そこからわたしが見えますか
見えたら今すぐ すぐにでも
わたしを迎えにきてほしい
 ※1

だけど、今日は違うぞ。違うんだ。
オレは、断固として、一軒のイタリアンにむかっている。
環状線道路をこえて、広い坂道をおりる。
この坂道があやしい。
こんなにも、くねくねとしていない、真直ぐの坂。
しかも、シャレにならないほど、傾斜がきびしい。
ここには、楢も欅も山桃もない。あるのは手堅く剪定された樹木ばかり。
その周囲を、しっかりした門構えの住宅が囲んでいる。
ほとんどが二階建てだが、低い生垣や石壁に囲まれ、門から玄関までのエントランスが長く、建坪もおおきいので、屋敷は身をかがめじっと息をひそめているように見える。
整然としすぎている。庭先に植えてある桜の樹もうそくさい。
これが田園都市ってやつだ。高台の駅から、坂を住宅街にくだっていく。この先の木立の向こうには、多摩川があるんだろう。
その急な坂をくだると、ひだりてに教会と幼稚園の敷地がひろがっている。
どこも大した住宅だ。ただ、さいきん建てたというふうでもなく、築後20年はたっている、という具合の品の良さ。そこからはもう時間がとまってしまっている。とても生活感が乏しい。
自分たちにあるのは、こんな停滞と充足だけ。このあたりの土地柄だ。

山は暮れ野は黄昏の薄(すすき)かな―― ※2

という訳にはいかない、か。

そして、それぞれの住宅のなかで、息をひそめて幽かに微笑んで暮らしている人がいる。おのおのの家族がいる。

ゆうべ夜中に動画検索をしてたら、85年の地上波テレビ(当時はそんな言い方もなかったけど)で、《時代の徒花》とかいうタイトルで中学校のいじめの話を取り上げてた。あれだってもう三十五年も昔。昭和のころには、もうそんな酷い話で番組をつくれてたんだな。

この平明な住宅に囲まれた急傾斜の坂をおりるのが、あの場所でメシを食べるための通過儀礼だ。

広い坂をおりきって薄闇の路地をはいったところに、茅野の店「Bistoro 糸遊(いとゆう)」がある。油断していると見過ごしてしまうような、本人の住まいをそのままにつかった建付けのわるい、洞穴(うつほ)みたいな店舗だ。看板も、ライトがついていないので気づくのに注意がいる。
入ってすぐのところに、六人掛けのテーブル。厨房の前がカウンター席になっている。こんな夕暮れ前の半端な時間なのに、もう満席だ。客はすでにだいぶワインを召しているらしく、それぞれに嬌声をあげたりしている。しっかりと朝からまっとうに働いて、職分をおえて早めに職場を出て、一日分の疲れをほぐしているという感じ。もちろん、一人客はオレだけだ。
「ゴロー、きょうは何食べるんだ? 家の近所でドングリ拾ったから渋み抜いたんだけど、茹でるか炒めるかしようか」
茅野はコックコートの袖を肘までまくりあげた。
体のでかいシェフは腕も図太く、そのあちこちに火傷の跡がある。このところ、腹部の膨らみが尋常でなく、客たちもみんな密かに心配しているらしい。
茅野はオレより一回り年下だ。だが、その高飛車、横柄を衒った口ぶりは、ずっと年上のような気がする。オレはそうしたカレとの付き合いを好んでいる。
茅野は仕事中、手元に北欧産のウォッカのボトルをおいて、絶え間なく唇を湿らせている。
「武蔵野のドングリは今度にするね。お腹が減ってるんだ。任せるから、いろいろお願いします」
厨房と真向かうカウンターの隅席に腰をおろして、一息つく。客席には見知った常連客が何人かいる。互いに目だけで挨拶する。
〈任せる〉といったが、「糸遊」には初めからメニューなどない。茅野が入ってきた客の顔色、様子をみて、勝手に判断して料理の組み立てを決める。皿数、肉・魚なども客はえらべない。唯一ワインの好みを伝えるだけだ。酒をのまないオレは、いつも発泡水と食後のダブルエスプレッソだけをもらう。
「ゴローは何が好きなんだっけ」とこちらを見ずに茅野がつぶやく。そんなことを訊いてもらえるまでに、どれだけ通っただろう、とおかしくなる。
「いちばん好きなのは、揚げた玉蜀黍(とうもろこし)かな」
「ありゃ旨いよ」
「パスタは事務所で夜、茹でたりするな。ポモドーロ・バジリコとか」
「貧富や身分の差に関係なく、誰でも喰う料理だな」と、シェフが手元に目を伏せたまま、鼻で哂う。
最初に供されたのは、トリッパの煮込み。オレの好物だ。上に黒いハチノスの皮が載っている。
早速、口にいれると、ぬめぬめとした食感。固めの歯ごたえ。これが堪らない。
大抵の料理屋は臓物を水洗いしすぎるんだよな、と、以前この店で会った茅野の朋輩が言っていたのを思い出す。
「一滴も呑まないのに、よくこんな料理を食べられるよな」
茅野は、フライパンにオリーブオイルとバターを溶かしながらいう。
「ゴローは、酒は味がダメなのか? それともよっぱらっちゃうからなのか?」
「味がどうとかにたどりつく前に、目が回っちゃうんだ。コップに半分のビールでひっくり返ったこともある。イタリア人はみんなお酒呑むのかな」
「そりゃ呑まない者もいるよ。みんながみんな、ワインで騒いで女を口説いてるわけじゃない。北と南でもだいぶ違うからな」
イタリア全州のリストランテで修業してきた茅野は、次の皿を差し出す。
これは……穴子で生ハムを包んで揚げてあるのか。フリットというのかな。
肉厚の穴子の脂身が口中で蕩ける。そしてハムのかすかな塩味がそこに薄手のレースをかけるようにそっと蔽いかぶさる。
背後のテーブル席の仕事の同僚らしい男女のグループが「おいしいねぇ!」と声をあげる。何を食べているのか。
「シェフ、ほんとうにこのビステッカはいいねぇ」とそのうちの口髭をたくわえた男が、茅野に声をかける。ずいぶん若い。二十五かそこいらだろう。赧ら顔に満面の笑みだ。でも、すこしシェフに媚びている風もある。
「この穴子もすばらしいよ」と、オレもそっと感想を述べてみた。
茅野は無表情にオレを見る。
「誉められて嬉しいのは、年寄りの親をつれてきている夫婦、子持ちのね。そうすると、あぁ、喜んでくれているのが有難い、と思ったりするんだけどね」
柄にもなく殊勝なことを言うな、とおもったが黙っていた。
「一日厨房で料理の皿つくっていると、その間に、よくできたものも、だめなものもあるんだよ。何度も何度も落ち込んだりするんだな」
と茅野は言ってから、喋りすぎたと照れ笑いを浮かべた。
「ところで、ゴロー。小雪ちゃんとは会ってるのか?」
「いや、全然ずいぶん会ってないな」
「オイラあのコ好きだったけどな」
「オレも」
「何言ってやがる」
「自分が臨終の床で、最後にその顔を見て逝きたい、というのは一人しかいない。カノジョだけだよ。もう、会わないのかもしれないけれど」
「みんな、死ぬときのことなんかほんとに考えたこともねえくせに、命を云々するんだな」
「シェフからそんな話を聞くとはおもわなかった。屈折しているんじゃない?」
「葛藤のない料理人なんていないよ。金のために身を落としたっていう感じがして涙がでるときがあるぜ」
そんな騒々しい話を交わしているけれど、オレは静かな心持ちだ。
なんだかこの狭い店で食べていると、緑深い雑木林に腰をおろして、落葉を拾っている気になることがある。塩使いを基盤とした荒々しくケレンのつよい茅野の料理に、なぜそんなことを思うのだろう、と不思議な気持がする。この坂の底の洞穴みたいな「糸遊」は、武蔵野の楢林にあるのか? いや、もっと濃くひんやりとした森だ。
ボンヤリしていると、小ぶりの皿が供される。
玉葱と玉蜀黍のフリッタータ。
「オレ、オムレツ、好きなんだよな」
早速いただくと、口中にバルサミコ酢がすっとひろがる。玉葱と玉蜀黍が驚くほど生に近く、シャリシャリと歯ごたえがあり、甘みがひろがる。そしてこの絶妙な玉子の火の入り方。
やっぱり定食屋のケチャップどばどばとは別物だな。こういう一見簡単な料理が実際はむずかしいんだろうな。オレが感嘆すると、茅野が言った。
「ほら、刺身だって、解凍するのに、丸一日かけて冷蔵庫でやったら違うだろ」
「わかる気がする」
「材料はべつに高いものじゃなくていいの。一手間かけると味もいいんだな」
間をおかず、パスタの皿がおかれる。
「カルボナーラ?」
「カチョエペペ。ま、おんなじローマだけどな」
軽く炒めた麺にふんわりと擦りおろしたチーズが載せられ、黒胡椒がかけられている。かるくてすぐに食べ終えてしまう。
セコンド・ピアットは骨つきの鶏煮込みだった。何種類かのキノコと併せてある。
肉を骨からよりわけながら、オレはひとつのことに気がついた。
「ね。茅野くん、きょうは料理にトマトをつかったものがなかったね」
イタリア料理といえば、赤い皿、という印象がある。
「きょうのゴローは、白っぽいよ」
え? 想外のコトバにオレはたじろいだ。
「白っぽい……。どういうことなんだろう……」
輸入雑貨商らしくない、ということ? シラけている、ということ? 生命の躍動に欠けている、ということ?
茅野に言われると胸におもたく垂れさがる。
「こないだ、さ」と、仕方ない、というように茅野が口をひらいた。
「ちょっと仕込みを終えてパチンコ行ってさ。四時前にもどってきたら、何人も店の前にならんでるんだよ。知った顔もいるし、ぜんぜん知らない人も。背筋のばして、ボンヤリと立ってるんだよ。これ、なんなんだよ、どういうことになってるんだよ、って思ってさ」
「うん。どういうこと?」
「パチンコのいいところは何も考えなくていいところ、といった人がいたけど。オイラの店の前で立っているお客を眺めていたら、ここで店が開くのを待ってくれてる人も、結局は何も考えたくない人間なんじゃないか、とすこし慌てちゃったんだよ」
「白っぽい、てそういうこと?」
茅野はそれ以上何もいわなかった。

I pulled into Nazareth, was feeling ‘bout half past dead
I just need some place where I can lay my head
Hey, mister, can you tell me, where a man might find a bed?
He just grinned and shook my hand, “No” was all he said.

ナザレにたどり着いたとき、俺は死人のように疲れ切っていて
ちょっとばかり休む場所が欲しかった
「なあ、どこか横になれる場所はないかな」と、聞いてみると
彼は笑顔で俺の手を握りながら「そんなものねえよ」と言い放ったのさ
 ※3


※1 ちあきなおみ「冬隣」(詞・吉田旺)
※2 与謝蕪村
※3 The Band「The Weight」

(続く)


孤独のグルメ2

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