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小説『孤独のグルメ』――第13回「月曜夜にスマホは水没。水曜日おでんに救われる」

久住昌之氏の原作と、谷口ジロー氏の静謐な作画の組み合わせで描かれるひとりめしの楽しみが共感を集め、現在累計80万部を突破した人気漫画『孤独のグルメ』。日刊SPA!では『孤独のグルメ 望郷篇』と題して、小説篇を連載中(隔週金曜日更新予定)。執筆は、『孤独のグルメ』の初代担当編集者である壹岐真也氏。漫画やドラマとはまた一味違う五郎の哀愁を味わってみてほしい。

【孤独のグルメ 望郷篇 第13回「月曜夜にスマホは水没。水曜日おでんに救われる」 壹岐真也】


1980年、銀座三丁目で一億円拾った当時42歳のトラック運転手は、6か月後、遺失物法に基づいて、その大金を正式にジブンのものとした。
3千ン百万かの住まいを買ってその後をくらして、時々、週刊誌に「あの人はいま」というような特集記事でつつかれたが、おおむね静かな生活をおくった。
この元トラック運転手は、2002年に62歳で死去している。
興味があるのは、一億円を拾ってからよりも、一億円を拾うまでの、それまでのこの人の人生観だな、と、いまオレはおもう。
一億円を手にするまでの、カレの将来設計。ジブンの暮らしはこの先、どのようになっていくのだろうか。何を期待すればいいのだろうか。
そして、カレが一億円を手にしたとき、そうした人生への見立てはどこへ消失したのだろうか。
ちなみに、カレが破格の大金を拾い上げた4月25日は、いまでは「拾得物の日」とされているそうだ。

なんでこんなどうでもいいことを思い出したかというと、おとついの深夜、スマホを便所で落としたからだった。
疲れてもどった事務所で急な便意をおぼえて、尻ポケットに差したまま、焦ってズボンとパンツをいっしょにおろした途端、背後で水の撥ねる音がした。
ポチャン。
初め、それは可愛らしく聞こえた。
そして次の瞬間。まさか、と、たぶんオレの顔面は蒼白、に変わっていただろう。
え? なにこれ? 
まさか、このオレが? 振り返って見下ろすと、あぁ、三分の二まで水に浸かった黒く四角い輪郭。
ギャッ。
と声をあげたかもしれない。
どうすりゃいいの?

慌てて拾いあげて、トイレットペーパーで拭いたが、画面が黒い。電源を入れ直す。もうだめ。なんも反応しない。
その晩、何度も何度も、電源をオンオフしてみたが、オレのスマホは深く沈黙して、固まったままだった。

翌々日、ネットで検索した五反田の修復ショップに出かけた。
自宅、仕事場からは距離があるが、その日の打合せ先から近く、地矩がいいと判断したからだった。
水没とその後の事情を話して、一旦、検査するので三、四時間後に連絡をするといわれた。困った。携帯がなくては、事務所、自宅にいつづけなくてはならない。そりゃ現実的、神経的に無理だ。指定の時間に再度たずねることにして、ショップを出た。
時間つぶしに、近くまでタクシーでいき、『ボヘミアン・ラプソディ』をみた。
オレにとって久しぶりの映画館なのに、あまり作品に集中できなかった。
映画館をでると、日が沈みはじめていた。

Keep yourself alive
keep yourself alive
It’ll take you all your time and a money
Honey you’ll survive

それでも生きていくんだ
生きているってことが大切さ
たしかに時間もお金もかかるけど
それで生きていくのが人生さ
 ※1


五反田駅東口の夕暮れには、いまでも、だれかが一億円を拾いそうなあやしい雰囲気があった。
東五反田の町は、昏い。
雑居ビルに韓国パブ、ピンサロ、回春エステ、タンタンメン専門店……。
店名が凄い。そうとうの才能だ。
ラ・ミュゼ。ソウル。高羽屋。Shelter.。ユンケル……。
この平凡さ。派手過ぎないのがいい。狙ってできる並びじゃない。
その合間にジビエ料理や、居酒屋、カラオケ、町中華、そしてラブホなどがいろいろ肩をよせあっている。
ラブホテル。stay¥6800~ rest¥3900~……。
無料案内所の赤と黄のネオンが目に刺さった。

近所に塩やきそばの旨い一軒をしってたけど、久しぶりにこの五反田の迷路に足を踏み入れたら、それじゃすまない。
オレは駅前から桜田通りを北東へむかってあるく。消費者金融と通販の大きな看板がビルの屋上を占めている。
大きな通りを渡り、ふらふらと路地にむかっていく。
オレは癒されたい。
立体交差の手前を脇道にそれる。
きょうはなんだか、白昼夢をみているようだ

スマホがない。
この感じってなんなのだろう。
電話、メールの不都合はとうぜんだけど、オレは二十年来腕時計をはめたことがなく、ラジオももっていないので、この辺が意外にこまる。ちいさな不便の数々。
そして、手持ち無沙汰。
うっすらと靄がかかった不安。
虚脱。焦り。
だけど、幽かになつかしい間合いがあることには、ジブンでジブンにおどろいた。
いつか親しんでいたような、間延びして暇な感じ。
携帯を使いはじめて二十年以上になる。ジブンは今まで、落としたり、どこかに置き忘れたりしたことは一度もなかった。そんな顛末を読んだり聞いたりするけれど、所詮関係ないことと、身をいれて考えてもみなかった(サイフの場合は、カード、免許証、保険証の後始末など想像してゾッとした)。
それにしても、このオレが、いつから、こんな小道具にたよるようになっちゃったんだろう。
情けない。でもしかたない。すくなくとも仕事にはぜったい必要なのだ。
オレの仕事。輸入雑貨商。浮草稼業だ。

ああ今日がその日だなんて
知らなかった
ぼくはもう
このうちを出て
思い出がみんな消えるとおい場所まで
歩いていかなくちゃならない
 ※2

桜田通り沿いをあがると、斜めの小路に提灯が見えてきた。障子をはった引き戸の外に煤にまみれた黒提灯が吊るしてある。
まだ、灯ははいっていない。
オレは腹が減っていた。
こんなときは刺激の強い食事、料理人の意図と主張、やる気と技術を押しだされる料理は、とても、神経がもちそうになかった。
オレはあらためて、提灯の胴体、火袋に書かれた墨文字の屋号の埃を吹き、店名をよんだ。

おでん 闇兵衛

いいな。おでん。だいぶ冷えこんできたし。
オレは引き戸をひらき中にはいった。
L字形のカウンターが奥へ延びている。手前に三席、奥の長い側が五、六人座れる勘定か。客は、いちばん奥で肩肘ついてる白髪のサラリーマンが一人だけだ。
戸口のそばに腰かけようとすると、
「そっちは隙間風がくるんだ。もっとこっちへどうぞ。暖かいよ」
と、狭い厨房に立つ割烹着のオバアサンがいった。奥のL字の辺の長い方にうつり、サラリーマンと二席あけて座る。
「あの、食事だけなんだけど、かまいませんか」
「どうぞ」
ビニールにはいっていない熱々のオシボリをおいてから、オバアサンはホーロー薬缶のお湯を急須につぐ。熱いほうじ茶の湯呑みがおかれた。
カウンターの中に、四角形のおでん鍋。木のふたの脇からほそく湯気があがっている。
オレは、その蓋をとってください、とたのんだ。
一気に湯気があがり、オバアサンはすっと身を退く。
鍋は間仕切りされて、そこにさまざまなタネが水没し煮込まれている(そういえば、便器の水たまりに三分の二くらい浸かったスマホは黒コンニャクみたいだった)。
出汁の醤油とカツオの香りにうっとりする。
オレは慌てて、目につくものを注文する。早く引き揚げなくっちゃ。
「えっと、大根。がんも。それと……芋は……」
「里芋だけど」
「うん、いいね。あと、そうだコンニャク! ごぼう巻き。それと、ソーセージ巻きとお豆腐ください」
「ちくわぶはどう?」
「いいね。ちょうだい」
ちくわぶは、実はオレの好物だ。あの、味があるのだかないのだかわからない、小麦粉のねっとりとした食感がたまらない(コンビニおでんのちくわぶには異を唱えたい。ながく煮過ぎると内側から味が崩御してしまうことには早く気づくべきだ。早急な対処をのぞみたい)。

But the fool on the hill sees the sun going down
And the eyes in his head see the world spinning round

けれど 丘の上のバカは陽が沈むのを眺めてる
世界がまわるのをこころの目でちゃんと見ている
 ※3

壁にかけられたテレビで、ちょうど相撲の幕内土俵入りをやっている。
直径十五尺、4m半の小さな土俵の円を、東西それぞれ二十人ほどの力士が囲む。
絢爛たる化粧回しの巨きな男が髷頭を鬢付け油で光らせている。
色艶のよい肌が隆々たる筋肉をつつんでいる。
「まぁなんだね、お相撲なんてのも興行なんだからいろいろ事情はあるわな」
と白髪のサラリーマンが小鉢の巻貝の肉を楊枝でそぎだす。
「そりゃあんだけ巡業まわってるんだから。怪我しないようにするだけで大変でしょ」とオバアサン。
「ざんねんとしかいいようがないよね。しょうがない、とはいいたかないけど」
白髪サラリーマンは、熱燗の徳利をかたむけて、丁寧に酒をつぐ。
オレは、ホゴホゴと熱々の大根を口の中で冷ませて、里芋を半分にしてそっと噛む。
濃いめの出汁が、ほらゴロー、見ててあげるからシャンとしなさいよ、と力づけてくれている。それから、がんもどきの洗いざらしの浴衣みたいな舌ざわり。
オレは相撲取りの尋常でない強さを知っている。大学の相撲部のやつらと、遊びに土俵で胸を合わせたことがあった。その肉は、太刀打ちできない鋼鉄だった。
「あの、ご飯ありますか」と、やや元気をとりもどしてオレがたずねる。
「きょうは、茶飯でなくて豆の炊込みなんだけど、いいかな。えんどう豆ですが」
「もちろん、お願いしやす!」
オレは、白いご飯はもちろんなのだけど、炊込みご飯も好物だ。あのほのかな香りと、椎茸でも鶏肉でもお豆でも、具材の控えめな味わいに心が温まる。
「おでん、で要るかわからないけど、豚バラのおつけがあるよ」
「おつけ……みそ汁ですね、くださいください」
「胡瓜の古漬けいる? 新らっきょも漬け上がってるよ」
「どっちもちょうだい」
おでんは、醤油のよく滲みた、まさに東京! という味つけだった。
タネのひとつひとつが、ゴツゴツしていて、だれかが手をかけて練り、作ってくれたものだとつよく伝わってきた。
オレは、さらにはんぺん、玉子、昆布、それからもう一回ちくわぶを注文して、ほんのり味のえんどう豆の炊込みご飯をおかわりした。
オレは満腹した。

「基盤をすべて検査しましたが、何の反応もなく、回復への可能性もありません。このうえは、言いにくいのですが、機種変更をお勧めします」
修復ショップの店員は、〈申し訳なさそう〉とはこういうことか? という表情を作って告げた。
なんの役にもたたなかった、待ち時間のぶんだけ無駄をした、とは思わなかった。
おでんのおかげだった。
オレは、黙って、結構な料金をはらった。
もういいよ。カンケーないよ。
どこかでショコラショでも飲んで、事務所にかえろう。

光の壁をすり抜けて 俺はきみになる
時のすきまを横切って きみは俺になる
昇りついた想いの鍵を きみの足首に引っかけようと
俺は いつか なぜか きっと猫になる
そしてそのまま また屋根の上
 ※4

写真/photo library

※1 QUEEN「炎のロックンロール」BRIAN MAY
※2 辻征夫「突然の別れの日に」
※3 The Beatles 「THE FOOL ON THE HILL」訳・内田久美子(「馬鹿」は「バカ」に変更しました)
※4 「屋根の上の猫」PANTAX WORLD

(続く)


孤独のグルメ2

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孤独のグルメ 巡礼ガイド3

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