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小説『孤独のグルメ』――第14回「浅草の片隅でロシア料理の強靭な連続技に熱く火照る」

久住昌之氏の原作と、谷口ジロー氏の静謐な作画の組み合わせで描かれるひとりめしの楽しみが共感を集め、現在累計80万部を突破した人気漫画『孤独のグルメ』。日刊SPA!では『孤独のグルメ 望郷篇』と題して、小説篇を連載中(隔週金曜日更新予定)。執筆は、『孤独のグルメ』の初代担当編集者である壹岐真也氏。漫画やドラマとはまた一味違う五郎の哀愁を味わってみてほしい。

【孤独のグルメ 望郷篇 第14回「浅草の片隅でロシア料理の強靭な連続技に熱く火照る」 壹岐真也】


写真/Photolibrary

ちょっと予定がくるった。
馴染みの取引先でヴェネツィア・ガラスの花瓶、フォトフレーム、テーブルライト、燭台などの大量註文を正式に受けた。そこのオーナーの奥さんに以前おしえてもらった浅草寺裏の甘い物屋でまた豆かんと、前に食べ損ねた煮込み雑炊を愉しもうとおもったのだけど、店は休業していた。当てがハズレて、オレは言問通りを渡りつつ、内的な独白にふける。

オレって、いつもそうだ。こんなことが多すぎる。

通り沿いの駐車場においた車をそのままにして、ふらふらとオレは「おかげさまで開園165周年」という幟の立っている花やしき通りから、浅草寺の境内へ裏から入る。
右手の五重塔、左の六角堂が暮れはじめた淡い橙色の空気のなかでライトアップされていい感じだ。
本堂前に出て、一応、お賽銭を投げる。100円。
授香所でお線香を買い、常香炉に立て煙を頭に塗る。脳と神経だけは神だのみしておきたい。あとのアチコチの痛みは些細なものだ。
浅草寺観音籤。おみくじをひく。そっと紙をひらく。
「第九十六 大吉」
オッットット!

鶏遂鳳同飛
棹舟須斎岸

病気:治るでしょう。
待ち人:現れるでしょう。

嘘つけ。それから仲見世をぬけていく。
通り過ぎる人のほとんどが、外国人の気がする。アジア人。中国、韓国、フィリピン、ベトナム、いろいろな人が大きな声で話しながら、自撮りをしている。
レンタルだろう色鮮やかな着物をきた(たぶんベトナム人の)若い女の子の集団。
やっぱりオレはここでは地に足ついていないな。

伝法通りを曲がって、革ジャンや安全靴を軒下に並べた店々を覗きながら、天丼屋の前をとおり、また右に折れる。
寒い。
このあたりの土地勘がまったくないので、ジブンが賑やかな歓楽街のなかで一人だけ迷路にさまよいこんだ気がする。不安になる。
三叉路、五叉路とかがやたらと多い。路上に卓を出して酒を呑んでいるオヤジさんたち。わかい人も結構大人数で盛り上がっている。
四つ辻の角の演芸ホールの入口に「只今割引一五〇〇円!」の貼り紙が出ている。
オレはふらふらと中にはいってしまった。

四階までエレベータであがる。もらったチラシをひらくと、

錦秋のあざやかな笑い! ここにあり!!
♡ボーイズ&バラエティ寄席‼


裏側には12月下席のタイムテーブルが載っている。
今日の欄をおってみると、テレビに出ない、知らない芸人の名前が連なっている。藤本芝裕。ストレート松浦。チャーリーカンパニー……。
あれ。グレート義太夫って……たけし軍団の人だったよな。
へえ。こういうふうに仕事をしているんだ。エライな。

エレベータを出ると、モギリの女が寄ってきて「いまはパイプ椅子です」と、サッサと閉じた椅子をさげて会場へ先導する。
照明を落とした客席は意外にも満員で、その最後尾に椅子をひろげてくれた。
舞台が明るい。どの方向にも影ができないように誂えているのか。逃げ場所のない光だ。
下手の袖にめくりが立っていて、三遊亭ナントカという知らない落語家の名前。
中央で、ごま塩頭の中年が落語を話している。やたらと声をはりあげる。途中からなので、噺にはいっていけない。

オレって、いつもそうだ。こんなことが多すぎる。

当然笑うこともできずに高座をながめていると、やがて噺がおわり、落語家は頭を深く下げて退いた。
頭の下げ方がよかった。画になっていた。そういえば、以前、テレビで自称・名人の落語家の高座を見たが、出囃子にのってでてきて座布団に座り、首を垂れたところまでで、すっかり感心させられたことがあったな。
オレはボンヤリ舞台をながめることにした。
前座の若い男が出てきて、めくりを変える。お客の何人かが拍手をした。
「東京ボーイズ」
客の年齢層は相当に高い。大半が六十歳過ぎだろう。いや、七十を越えているかもしれない。だが、舞台にでてきた二人はもっと歳がいっているようにみえた。左のちょび髭が三味線を、右の長身でオールバックの男はウクレレを抱えている。蝶ネクタイにタキシードで揃えた二人とも、ワルそうな、食えなそうな風体だ。こういう芸人さんは楽屋で会ったりすると目が恐ろしいんだよな。
二人はあんまりおもしろくもなさげに、それでも三味線とウクレレを調子よく鳴らしはじめた。一本の立ちマイクに顔を寄せ声を合わせる。

♪天気が良ければ晴れだろう
天気が悪けりゃ雨だろう
雨が降ろうと 風が吹こうと
朗らかに〜


挨拶がわりの一曲を短くこなして、すぐに次にはいる。

♪わたしたち東京ボーイズを~
謎かけ問答でとくならば~
種をまかない畑です~


と重ねて、

♪そのはココロは~
いつまで経っても芽が出ない~


と落とした。意外にもきれいな声だった。
客席のひくい笑い。オレもなんとなく脱力して笑いをつくった。
「では、ここはつづけて、〈謎かけ問答〉をいってみまショ」とウクレレが拍子をとって、

♪桑田佳祐という歌手を~
謎かけ問答でとくならば~
魚屋のなりたてとときまする~


とウクレレが調子をつけて一拍おくと

♪そのココロは~
カシがなんだかわからない~


……客の温度がひくい。サザンもここでは若手すぎるのかな。河岸=歌詞がわかりづらい、か。オレはまた思いにしずんでいった。

オレって、いつもそうだ。こんなことが多すぎる。

三十分後、オレは、料理店の奥の席に一人で腰かけている。
「Мой сад モーイサート」。私の庭。
向いの卓には、こちらに背を向けてグレーのジャケットの七十くらいの男。オレと顔を合わせる向きで、せいぜい二十代中頃の白いニットのセーターを着た女。服のうえからの胸の膨らみがちょうどよい。鼻筋のとおったきれいな顔立ちだ。“私の隠れ家”という言葉が頭にうかぶ。
ここはロシア料理屋だ。浅草にきてすこし時間の余裕があると、オレはこの古いロシア料理の家をたずねることにしている。
寿司、天ぷら、すき焼き、洋食と、この町にはいろいろな飯屋があるけれど、そしてどこもほんとうにおいしいのだけれど、ほとんどの場合、城西から来た独り飯のオレにはもうひとつ落ち着けない。
どこもオレみたいな平凡客でなく、ハレの日で金遣いがいい観光客を狙いにしてるからかもしれない。
ここは給仕さんもシェフも無口でよけいなことは口にしない。
オレはメニューをながめながら、聞くとでもなく、向こうの席の二人の会話に耳を欹(そばだ)ててしまう。
「でも、うれしいです。先生のほうから誘っていただけて」とニットの女。
「はは。ま、あなたともたまにはこんな店で食事するのもいいだろうとおもってね」
「ほんと。ワタクシみたいな生活をしていると、ついついお食事もいい加減になってしまって」
どんな関係なのだろう。女の身なりはけっして派手でなく、むしろ清楚さを強調しているけれど、どことなく素人でない雰囲気が滲みだしている。
やはり浅草、一筋縄でいかない。
男は背中しか見えないが、声音から教養の高さがうかがえる。学生と教授? いや、女はただの大学生じゃない、ぜったいに。

こちらにも料理が二皿ずつはこばれはじめた。
ボルシチとライ麦パン。
スープはサワークリームの酸味とあわさって、舌から胃をなだめるように満たしていく。このスープの赤色。大学出てしばらく経つまでトマトだとばかり勘違いしてたな、とふとおかしくなる。ビーツなんて野菜、家では食卓にでなかったものな。この温かいライ麦パンもいい。柔らかくて、ヤマザキの食パンみたいだなどとチャラい感想がでてしまう。ちがうのは、クラムにちらされたキャラウェイシードの香りだな。
次に出されたビーフストロガノフとピロシキ。
これが強烈な連続技だった。まるでエメリヤーエンコ・ヒョードルの打撃のような(あいつはほんとうに強かった。人類最強とオレが確信をもっていえるのは、あいつと全盛時の朝青龍だ)。ビーフストロガノフの脇には人参グラッセといっしょに白髪ネギの細切りが添えられてある。旬だからかな。こういうところがこの土地らしい洒落っ気なのか。ピロシキの熱さ、挽肉の脂汁に頭がぼうっとなる。オレはいま、浅草でなくウクライナの片隅で腹を満たしていても不思議じゃない。
ビーフストロガノフは、ジミヘンの69年大晦日フィルモアイーストでの「ストーン・フリー」みたいな味だ。毀せるだけ毀した。けれども枠には収まってみせるぜ、という気概と自信。よくわからない。ギル・エヴァンス版の「ストーン・フリー」を愛聴しているジブンには。
体が、動脈、静脈が、熱くほてってくる。脳はすでに前の皿さえおもいだせない。オレは、ぼうっとしてスプーンでこの濃く絶品の料理を口にはこんでいるだけだ。あれ。ボク、どこにいるんだっけか。

「物忘れが激しくなって困ってるんですよ、医者(センセイ)」
「ああ、いかんですね。いつごろから?」
「何の話です?」
 ※1

オレは、こんなちょっとした記憶の混濁は、よくある日常のハプニングとして処理することにしている。
幸いにして、食欲はたいていの人より旺盛だ。
食べることができるうちは、人間は滅びない。そうだよね、プーチンさん?
食後にロシアンティーをもらった。熱い紅茶に、苺ジャムを小匙でおとしていただく。
濃い紅茶だった。苺は朝採ってきたものを速攻でジャムにしたように香り高かった。
紅茶を偏愛したロシアの文豪の作法を読んだことがあったな。

〈ポットの3分の1だけお湯を注ぎ、ポットにナプキンをかぶせる。3分ほどしたらポットに一杯になるまでお湯を注ぎ足し、またナプキンをかぶせる。カップにお茶を入れながら、パパは必ずお茶の色を見ていた。お茶を足したかと思うと、湯こぼしに移し入れて熱湯を注ぎ足すことがたびたびあった。〉

文豪はこんな大袈裟な言葉ものこしている。

「一杯の紅茶を飲むためなら世界が滅びてもかまわない」

まったく、ロシア人って。凄いな。
浅草の東京ボーイズで勝てるかな?

祝福せよ 孤独な僕らにも敵が現われた 鏡の中で僕の面貌は一変する 鳥肌たつ生のフィクション! ドアの外へ 不眠都市とその衛星都市 七つの海と巨大な砂漠 夏のペテルスブルグから冬のパリへ  ※2

オレは店をでると新仲見世を、店先に出ている靴の値段におどろきつつ流した。
ちゃんとした革靴が二千円もしない。
思わず三足買ってしまった。紙袋をさげてグリーン通りを浅草寺の方へもどる。
子どものころ、この辺りの路面に松葉杖をついたり、腕を吊るしたりした傷痍軍人が出ていたのをおもいだした。
興味深くジロジロ見ていると、
「あんなのニセモンだよ」
と父親が耳打ちした。
ホントのところはわからない。
いずれにせよ、今夜は事務所にもどってヴェネツィア・ガラスの註文を整理しなくちゃならなかった。

♪オレたち輸入雑貨屋を~
謎かけ問答でとくならば~
種をまかない畑です~
♪そのココロは~
いつまで経っても芽が出ない~


※1 立川談志「『非常識』の居場所もない」
※2 田村隆一「秋」

(続く)


孤独のグルメ2

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