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小説『孤独のグルメ』――第15回「胸元の肌みたいな林檎と見えないふたご座流星群」

久住昌之氏の原作と、谷口ジロー氏の静謐な作画の組み合わせで描かれるひとりめしの楽しみが共感を集め、現在累計80万部を突破した人気漫画『孤独のグルメ』。日刊SPA!では『孤独のグルメ 望郷篇』と題して、小説篇を連載中(隔週金曜日更新予定)。執筆は、『孤独のグルメ』の初代担当編集者である壹岐真也氏。漫画やドラマとはまた一味違う五郎の哀愁を味わってみてほしい。

【小説 孤独のグルメ 望郷篇 第15回「胸元の肌みたいな林檎と見えないふたご座流星群」】


写真/Photolibrary

大学で挌闘技仲間だった後輩Q子が膵臓の病気で入院したという。
生まれたときから片腕がないQ子は、明るい子だった。今日も車いすで笑っていた。
A佐ヶ谷北の病院を見舞いでたずねたあと、同行した同い歳のE子とアーケード街をあるき、鰻屋の小上がりにあがった。
「平成24年からはじまった現在の経済回復はいざなぎ景気を超え、戦後2番目の長さに達した、との発表がありました」
テレビのニュースが、そんなおためごかしを連ねていた。
景気なんかちっともよくなっていないじゃないか、と不機嫌になった。
アナウンサーは、話を連ねて、
「60年代末からの高度成長期は新・三種の神器といわれ、カラーテレビ、クーラー、自動車の3Cが庶民のあこがれとされ、それはいまではデジタルカメラ、DVDレコーダー、薄型テレビと変わってきていますが……」とつづける。
座敷に腰をおろしたE子が
「それも、ちょっと古いよねえ」
とつぶやき、さっさと店員に特上の鰻重と肝吸二人前を、ジブン用にビールの中瓶をたのんだ。
それは輸入雑貨商なんてやっているオレでもひしひしと日々実感する。わかる。
景気については、オレにも一言ある。
同業のなかでも、この一年で商売をたたんで故郷の実家の家業を継いだり、さんざん苦労して転職したヤツがいる。
泣けたのは、天才肌の仕事をしていたムロイだ。仕入れの目利きに人並みならぬ勘を発揮して、コイツにだけはかなわんなぁ、とオレはいつも感心、諦めをかんじさせられた。
いま、コンビニの百均ショップでレジをやってる。一度店に顔をみにいったが、レジでの手順がわるいのに驚愕した。
「そんな、働き先をのぞきにいくなんて、ゴロー君の趣味がわるすぎるよ」
と、E子が珍しく咎める口調でいった。
「ムロイさんはできた人だから、何もいわなかっただろうけど。胸の内をおもうとやるせなくなるな」
「そうか。……だけど、そういう“敢えて”の鈍感さも必要かなとおもったんだ」
「無意識を衒(てら)って人の領域に踏み込むって、よくないよ。たとえそれが友誼だとしても」
「そうだな」
運ばれた鰻重は、重箱いっぱいにてらてらと赤黒く輝く蒲焼が敷き詰められていた。
鰻重のその目を瞠る堂々とした姿態は、三役力士、御嶽海のようだった。
オレは、天丼でも鰻重でも、ちゃんとした店で食べるときは「並」、「竹」をたのむことにきめている。それが、せいぜいできる郊外人の嗜みではないか、とおもう。
だが、E子はこういうとき、かならず「特上」を註文した。
鰻重は、たしかに旨かった。食べるのは一年ぶりくらいだったが、体の隅々、骨の芯にまで脂、栄養がすぐに到達するようで、おもわず「オオッ」と声をあげてしまった。
ふっくらとした肉の厚み。噛むとふわりと、でもシッカリとかえしてくる膨らみ。それからタレの甘み。辛み。炭火で深く焦がした皮の香り。
そういえば初めて鰻重を食べたのって、いつだったんだろう。最初は、たぶん、家で出前だったのだろうな。鰻をとるなんて、なにかのお祝いだったのかな。だとしたら、チチやハハ、もしかしたらアネキやバアチャン、ジイチャンも揃ってたかもしれないな。どっちにせよ、こんなモンはしょっちゅう食べるもんじゃないな。
「だけどさ、一旦食べると決めたら、いちばんいいのを頼むに限るのよ」
と、E子は蒲焼きにたっぷりと山椒をふり、肝吸をすする。
「おいしかったらお替りもらいなよ。がまんするんじゃないよ」と笑う。
そうかもしれない。懐具合を気にしてならともかく、ヘンにカッコをつけて「並」にこだわることはないのかもしれない。
オレはどうもまだまだ、そのあたりがヤワだ。でも……。
「私は年に四度、季節の変わり目、盆暮れには必ず鰻を食べるよ。いまの時分、冷えこむときにはとっても効く。ゴロー君も物忘れするんだったら、ドコサヘキサエン酸がいっぱいだから、食べるといいよ」
「ドコサヘ……何だソリャ」
「DHAってやつ。悪玉コレステロールも退治するんだよ」
「キミはいろいろなことを知ってるなぁ。猫のてなづけ方とか古い踏切のある駅の場所とか」
無駄話をしながら、頭の中で、敢えて「並」で踏みとどまるのも悪くないんだけどナ、と考えた。敢えて「並」をたのんでみる。それもまた、うるさったい気取りの仕草でしかないのかもしれないが。

だけど俺のキッスは安くはないぜ
そうさ今じゃオイラはいかれた道化さ
ベイベー ベイベー ベイベー
 ※1

「ゴロー君もこのへんで、もう一遍ジブンに向く流儀を本気でかんがえてみたら? 赤坂とかの表通りにパリッとした店舗を出してもいいしさ」
とE子が鰻から目をそらさずにいった。
「来年になれば、私、少しなら扶(たす)けることもできるとおもうよ」
「野暮いいなさんなよ」
と、オレは箸休めのお新香の蕪をかじる。
オレにほかにできることなどない、ということは、E子も承知の上だ。
カノジョはこの二十数年で結婚をして、上場企業の管理職にまで出世して、二人の子どもを育て、さいきん離婚した。次は常務職が内定している、といった。それなりに恰幅もよくなり、自信にみちた表情、身のこなしは押し出しがきいて大したものだ。
片やオレといえば、作るでも毀(こわ)すでもなく、ただ、右から左へ物品を流すだけの稼業。かといって、商社みたいに裾野が広いわけでもない。
そんな味気ない人生だから。飯の一皿一皿やシャツの糊の効かせ方とか、なにより雑貨の目利き、取引き相手の口説き方、我儘のやり過ごし方とか、しょうもないことに励んでいるんだ。
そんなことは、この女性はよく知っている。わかっていて、口に出さずにいられなかったのだろうな。
「そうか……。ところでQ子、あれは仮病だね」
E子が昏(くら)い顔でいったのは、「特上」の鰻重をすっかり片づけたあとだった。
オレはだまって店員を呼び、勘定をはらっていると、テレビのニュースが真面目くさった声で原稿をよむ。
「ポーランドで開かれていた温暖化対策COP24は、『パリ協定』実施指針で合意できず、温室効果ガスの削減目標の設定期間などは先送りとなりました」。
洗面所を出てきたE子は首にきれいに紫色のショールを巻いて、開けたままのコートからセーターごしに胸がせりだしていた。すこし小鼻がひらいていた。

一か月後、Q子からぶじに退院したとの連絡をうけた。
「ホントか? これからはあまりムリをするんじゃないよ」
「だいじょぶ。仕事は変えようとおもってる」
「一度話すかい? 時間とか場所はいつでもいいよ」
「ね。あのあと、E子さんと食事でもしたの?」
「いや。まっすぐ帰ったよ」
車いすになったQ子はすこしだけひくく声をだしていた。
E子との鰻屋のやりとりは話さなかった。
「来年になれば、私、少しなら扶けることもできるとおもうよ」といったことはもちろん、「ワタシ、この曲をきくと発情するの」といったE子との昔のいきさつも話したりはしていなかった。明るいQ子はそのぶんだけ神経が繊細だった。
E子のふとい筋肉質の腕と平たい胸と腹筋の胴回り。しっかりと固い太腿。
それは昔の、ほんとうに年代さえ曖昧な昔のはなしだ。
E子が自宅の《毛むくじゃら》のソファにもたれてかけた、ニホンの、どうにもならない、ニューロックのLPレコード。

あぁ 私を抱いて 気のすむように
抱いたあとで あなたとはお別れよ
どうせ私は気ままな女
あぁ 気ままな風よ
胸の奥深くうす紫色の霧が流れる

誰か教えてよ 私の行く先を mm…
 ※2

事務所へ戻る車中で、ふと、病室でオレとE子のために林檎を剥いてくれたQ子の母親のことばをおもいだした。
「林檎のおいしい食べ方は輪切りにかぎりますね」
それはほんとのことかもしれない、とこのところ気になっていた。
輪切りにかぎる、か。
夜中にそんなくだらないことをかんがえていたら、林檎じたいを無性に食べたくなった。オレはコンビニで108円の林檎を一個、買ってきた。事務所で丸ごと齧った。
この歳になっても、芯部分だけをのこしてあとをサッパリきれいに齧ることができないのだった。
口幅がちいさいのか、ガブリッとかぶりつくこともできない。
両くちびるを突きだしてシャキッと硬い果肉を剥いでいくのがようやくだ。
いつも普通にやっていることだけど、いつも普通にいだいてしまう迷妄。
審美的にも、劣る気がする。だけど……。
弁当箱の隅のくし形切り。
ちょっとシャレた木の葉切り。
長い耳を模したウサギ切り。
どれも、独り住まいのオッサンが家でやるには、たしかに似合わない感もある。メンドくさい。
林檎のいちばんおいしい食べ方が輪切りだ、とははじめて聞いた説だった。
オレは次の日に、あらためてためしてみた。
クイーンズI勢丹で買ってきた王林の林檎をまな板で1㎝程度に果皮ごと切断してガラスの平皿にならべた。
薄い円形に並んだ黄色の皮と実を眺める。
果芯が品よく小さくて、果肉はヴィスコンティ映画のシルヴァーナ・マンガーノの胸元の肌みたいだ。
円形の実を齧ると、はじめに皮のピンとした歯ざわり、それから果肉のピチピチ、甘みののこらないさわやかな味わい。ほどよい酸っぱさ。
あぁいいなぁ。
一度に口に入る量がちょうどよい感じ。
耳から脳にひびく咀嚼の音がしゃくしゃくと心地いい。
皿に置いた六つの食べ残しの芯の部分は桜の花びらに似ていなくもなかった。

リンゴを食べ終えると、コートを羽織り外にでた。
ふたご座流星群。
見えないじゃないか。
こみ上げる冷気。
ぶるぶると震えがくる。背骨までがくがくと。
東の空にうかんでいた下弦の月もいつのまにか雲に消された。

だからピッカピッカのダイヤモンドの夜をおまえに
ピッカピッカのダイヤモンドの夜をおまえに
送りたい 
送りたい 
 ※3

※1 ルージュ『パフォーマー』 
※2 カルメンマキ&OZ『私は風』
※3 ティアドロップス『ピッカピカダイヤモンド』


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