日本のマンガのルーツがイギリス?――ロンドン大英博物館で「マンガ展」開催の歴史的意義

<文/橋本博 『教養としてのMANGA』連載第10回>

大英博物館でマンガ展が開催

 2019年5月23日~8月26日まで、イギリス・ロンドンの大英博物館で、日本国外で行われるものとしては過去最大級のマンガ展「The Citi exhibition Manga マンガ」が開催されている。大英博物館では、2009年にSFマンガ家の星野之宣(ゆきのぶ)氏の原画展などが行われてきたが、今回は葛飾北斎から『ONE PIECE』、BLマンガまで幅広い展示が行われている。

イギリス・ロンドンの大英博物館で開催されている「The Citi exhibition Manga マンガ」のウェブサイト(https://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/manga.aspx)。ホームページを飾るイラストは野田サトル氏の『ゴールデンカムイ』(集英社)だ。

 この企画会議に私も参加してきたのだが、その際、こんな発言をした。 「この展示会は日本のマンガが文化資源として認められてきたことを世界に発信できる貴重な機会です。でもその文化を生み出したのはイギリスなのです。そのことを展示会の中でぜひアピールしてください。大英博物館には元となった『パンチジャーナル』や『ジャパン・パンチ』などの貴重なマンガ雑誌が完備されているのですから」

日本のマンガのルーツはイギリス?

 実は日本のマンガのルーツはイギリスだということはご存じだろうか。日本のマンガ技法は幕末から明治にかけて確立したと言われている。日本の絵巻物に見られる横スクロール形式技法に、イギリスから伝わったコマを使う技法が融合して、今の日本のマンガのルーツが完成したのである。  イギリスで発行されていた『パンチジャーナル』という風刺マンガ雑誌をベースに、幕末期にイギリス人、チャールズ・ワーグマンによって『ジャパン・パンチ』が発行された。ここからコマを使ったマンガを「ポンチ絵」と言うようになり、今でも建築家の間で使われている。つまり日本のマンガの原点はイギリスにあったというわけだ。  私は当時勤めていた熊本県庁を退職し、1977年から1年間、当時の西ドイツの首都ボンの環境法センターで公害・環境法の研究に従事していたことがあった。そこには世界各国からスタッフが集まっていたので、私はよく彼らとマンガ談義をした。  もちろんその頃はまだ、日本のマンガの国際化は進んでいなかったが、日本がマンガ大国であることはすでに知られるようになっていた。  そこにいたイギリス人で日本が大好きなドリスは、 「日本にマンガを最初に紹介したのはイギリスなのよ。幕末の頃に『ジャパン・パンチ』を日本で創刊したワーグマンって知ってる?」  と言ってきた。だから私は、 「もちろん知ってるよ。イギリスはたしかにあの頃はマンガの先進国だった。コマで画面を囲みセリフを書き込むという手法は、たしかにイギリスから伝わっている。でも今はフランスに押されてその面影ないねー」  と答えたら、 「日頃はおとなしいミスター・ハシモトは、マンガのことになると人が変わる」  と言われてしまった。

世界3大マンガ文化圏

 世界には「3大マンガ文化圏」というものがあり、各国はそのいずれかの文化圏に属しているとされている。  一つ目は、芸術性の高いB・D(バンド・デシネ)に代表されるフランスマンガ文化圏、次に、マンガをエンターテインメントと位置付けてビッグビジネスの手段として捉えているアメリカマンガ文化圏、そして最後の一つが、あらゆる分野をマンガの対象として捉え、読者を性別、年代別に区分して、守備範囲を広げてきた日本マンガ文化圏である。  中国や韓国には、独自のマンガのルーツはあるものの、文化圏としては日本に属する。北米、南米、それにアングロサクソン系民族であるイギリス、北欧はアメリカの文化圏に属し、ベルギーやイタリアなどラテン系民族の国はフランス文化圏に属していると言われている。  ドイツやオーストリアのようなゲルマン系民族の国では、独自のマンガ文化は育っておらず、アメリカやフランスの影響が強い。  勤務地の西ドイツでは、日本のマンガはほとんど見られなかった。というより、この国にはもともとマンガ文化が育っていないようだ。本屋には『スーパーマン』や『バットマン』のドイツ語版がパラパラとある程度で、マンガそのものの数が少ない。ドイツの活字文化は世界的だと言えるが、マンガについてはアメリカの植民地のようだった。  ところが隣の国のフランスはまったく違っていた。パリにはマンガ専門店がいくつもあり、有名なマンガ家が個展を開いていた。  例えば映画『エイリアン』の絵コンテも担当していたメビウスは、フランスやベルギーの独自のマンガ表現形式であるバンド・デシネの代表的な作家である。『AKIRA』(講談社)で世界的なマンガ家になった大友克洋や、『「坊っちゃん」の時代』(双葉社)で新境地を開いた谷口ジローに大きな影響を与えたことでも有名だ。  さすが3大マンガ文化圏の一翼をなすフランス。マンガ家は芸術家の仲間であり、社会的地位も日本とは比べ物にならないくらい高い。日本のマンガでは平田弘史のような、大胆な構図の時代ものが高い評価を受けていた。

なぜイギリスのマンガは発展しなかったのか

 では、なぜ日本のマンガに大きな影響を与えたイギリスのマンガは、その後発展しなかったのだろうか。  まず考えられるのが、イギリスのマンガは風刺画をルーツとして発展してきたことがあげられる。時代を鋭く切り取る風刺画は、文字よりはるかに高い訴求力はあるものの、時間が経てば陳腐化し、背景知識がないと理解できないものになっていく。歴史の資料とはなり得ても、時代を超えて共感を得ることは難しい。  日本でも明治期から戦後しばらくの間、マンガの基本は風刺画だったが、ストーリーマンガが中心となっていくにつれ、イギリスの影響は薄れていったのではないだろうか。  もう一つ考えられるのが音楽の世界との関連だ。イギリスには、ビートルズに代表されるロックミュージックが登場し、若者は熱狂した。ブリティッシュロックは、世界中に拡散された。日本のロックのルーツもイギリスにたどり着く。  風刺画の原点は社会へのプロテスト(異議)にある。その批判精神は当時の若者にも受け継がれていったが、彼らは手垢にまみれた古臭い風刺画を表現手段として選ばなかった。彼らが選んだのはロックだった。  多くの国では風刺画をマンガのルーツとしつつも、それを乗り越えて新しい役割をマンガに与え続けてきた。アメリカは、アニメや映画と連動してマンガにエンターテインメント性を与えた。日本は、マンガに長編に耐え得るストーリー性を与え、巨大市場を作り出している。一方フランスは、サブカルチャーの一つでしかなかったマンガに芸術性を与え、メインカルチャーに昇格させたのである。  だが、イギリスはロック輸出国だったからこそ、この競争に乗り遅れたのではないだろうか。もしもブリティッシュロックの繁栄がなかったら、ロックに熱狂した若いイギリス人がマンガに熱狂し、イギリスはマンガの輸出国になっていたかもしれない。  現時点では、ヨーロッパはフランスマンガ文化圏にまとまっているように見える。ただイギリスでも今回の大英博物館の「マンガ展」のような新たな動きが出てきたので、見逃せない。  この展示会を通して、隆盛を極める日本のマンガの原点がイギリスにあったことを、世界が再認識する機会になればいいと思っている。 橋本博(はしもと ひろし) NPO法人熊本マンガミュージアムプロジェクト代表、合志マンガミュージアム館長。 昭和23(1948)年熊本生まれ。熊本大学法学部卒業後、中央大学大学院法学研究科を経て、熊本県庁に入庁。退庁後、西ドイツにて国際機関勤務を経験。その後、大手予備校講師を勤める傍ら、昭和62年絶版マンガ専門店「キララ文庫」を開業(~平成27年)。平成23年「NPO法人熊本マンガミュージアムプロジェクト」を立ち上げ、平成29年には30年以上にわたり収集したマンガを利活用した「合志マンガミュージアム」開館を実現。マンガ『金魚屋古書店』(小学館)の巻末コラム執筆や崇城大学芸術学部マンガ表現コースの非常勤講師も務めるなど、文化遺産としてのマンガの保存・活用や、マンガの力による地方の活性化のため精力的に活動中。著書に『教養としてのマンガ』(扶桑社新書)。
教養としてのマンガ

『ONE PIECE』で熊本震災復興、まんだらけとの闘い、有害コミック問題と表現の自由、『ゲゲゲの鬼太郎』を生んだ日本の妖怪文化……。「伝説のマンガ専門古書店」元店主で文化庁マンガアーカイブ事業にも携わるマンガ評論界のレジェンドが語る! (帯イラスト:うえやまとち)

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