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芸能人の死に“追悼コメントしない”と批判? 不気味な圧力は日米共通

山下達郎が“追悼特集おねだり”をバッサリ

 たとえば、2013年に亡くなった大瀧詠一(1948-2013)のケースがそうでした。ツイッターなどが追悼コンテストと化し、“紅白は大瀧さんトリビュートにすべきだ”といったコメントが多く見受けられたものです。筒美京平(1940-2020)のときも、同じでした。  どちらも、“日本を代表する偉大な作曲家であり、私達の暮らしを豊かにしてきた功績に報いるためにも、ふさわしいやり方、それなりのスケールで追悼すべきだ”、という考えですね。
『BRUTUS No.863』 2018年2月1日発売

『BRUTUS No.863』2018年2月1日発売の山下達郎特集は、大滝詠一との対談も再録した超保存版

 一見すると、筋の通った意見に思えますが、果たしてそうなのでしょうか? 大瀧氏との交流で知られる山下達郎(67)のラジオ番組にも、当時そんなリクエストが殺到したのだそう。しかし、山下氏は強い違和感を抱いていました。 <大瀧さんが亡くなったあとですね、えー、番組宛に早く追悼特集をやれとかですね、追悼特集は誰も知らないレアアイテムをたくさんかけろとかですね、最低半年はやれと、そういう類のハガキが少なからず舞い込んでまいります。(中略)そうしたファンとかマニアとかおっしゃる人々のですね、ある意味でのそうした独善性というものは、大瀧さんが最も忌み嫌ったものでありました。> (「山下達郎のサンデー・ソングブック」2014年1月26日放送音源から書き起こし)  ややもすると、追悼という行為は、人の一生をただ仕事のみに矮小化してしまう危険性を孕んでいるということでもあるのですね。そのうえ、SNS社会では、都合よく一部を切り取られた故人への空疎な美辞麗句が超高速で無数に飛び交い、生命を一層軽く、薄くしていく。にもかかわらず、追悼というイベントに何らかの価値を見いださずにはいられない。そこに気づかないことを、“独善性”と呼ぶのかもしれません。  津野米咲の件で追悼を催促した人たちや、ヴァン・ヘイレンの件でクロスビーを叩いた人たちにも、共通している点なのでしょう。

ジョージ・ハリスン追悼コンサートの静けさ

 この数ヶ月で、多くのミュージシャンが亡くなりました。追悼やトリビュートという言葉がクローズアップされた時期でもありました。そんな今だからこそ、ジョージ・ハリスン(1943-2001)追悼コンサート(2002年)の静けさが思い出されます。
 誰も大げさに悲しまず、過剰に褒め称えることもない。涙もなければ、嘘くさい空元気もない。エリック・クラプトン(75)を筆頭に、ポール・マッカートニー(78)やリンゴ・スター(80)、トム・ペティ(1950-2017)といった錚々たるミュージシャンが、黙々とジョージの曲を演奏し続けるだけのお別れ会。  世間に改めて価値を認めさせようなどといった下心とは無縁の立ち居振る舞いは、厳(おごそ)かでした。  追悼したい、賛辞を贈りたいという気持ちを、即座にまっすぐ表すことが、本当に正当な行為なのか。一瞬立ち止まる間を持ちたいものです。 <文/音楽批評・石黒隆之>
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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