更新日:2025年06月03日 19:16
スポーツ

「4番・サード・長嶋茂雄」に憧れた江本孟紀が振り返る“唯一の対戦機会”「結果なんてどうでも良かった」

現役時代に対戦したのは「一度だけ」

私が現役時代に長嶋さんと対戦したのは、記憶に間違いがなければ一度だけだ。 当時のプロ野球は、今のように交流戦がないので、練習試合であるオープン戦は別にして、南海のいたパ・リーグはシーズン中に巨人と真剣勝負する機会がない。あるとすればセとパが対戦する日本シリーズかオールスターの舞台だけだった。 対戦が実現しかけたのが1973年だった。当時のパ・リーグは前期・後期に分かれての2リーグ制で、前期と後期の優勝チームがそれぞれ違えば5試合制のプレーオフで勝敗を決めるルールになっていた。 この年の南海は前期優勝を果たし、後期優勝を果たした阪急との最終戦までもつれこんだプレーオフも3勝2敗で制し、見事に日本シリーズ進出。セ・リーグの覇者だった巨人と対戦することになった。

「V9達成の瞬間」を眼前で見ることに

「これで長嶋さんがいる巨人と対戦できるぞ!」 その喜びもつかの間、長嶋さんは10月の阪神戦で右手薬指を骨折し、日本シリーズに出場できる状態ではなかった。長嶋さんと対戦できずに残念な思いを抱きながらも、私は南海のエースとして第1戦に先発することになった。 試合は劣勢だった。2回に四球から土井正三さんに先制の本塁打を打たれた後、8回にも森祇晶(当時は昌彦)さんにソロ本塁打を打たれて3対1で2点のビハインドとなった。 けれども、その裏に先発の髙橋一三さんに対して、3つの四球に2本の安打を重ねて3点を奪って逆転し、121球を投げて4対3で逃げ切り、南海にとってこのシリーズ唯一となる完投勝利を収めたが、その後チームは巨人に対して4連敗を喫し、巨人の前人未到のV9達成の瞬間を眼前で見ることになってしまった。
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自身の誕生日に開催されたオールスターでついに…
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1947年高知県生まれ。高知商業高校、法政大学、熊谷組(社会人野球)を経て、71年東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)入団。その年、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)移籍、76年阪神タイガースに移籍し、81年現役引退。プロ通算成績は113勝126敗19セーブ。防御率3.52、開幕投手6回、オールスター選出5回、ボーク日本記録。92年参議院議員初当選。2001年1月参議院初代内閣委員長就任。2期12年務め、04年参議院議員離職。現在はサンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送を中心にプロ野球解説者として活動。2017年秋の叙勲で旭日中綬章受章。アメリカ独立リーグ初の日本人チーム・サムライベアーズ副コミッショナー・総監督、クラブチーム・京都ファイアーバーズを立ち上げ総監督、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督として北京五輪アジア予選出場など球界の底辺拡大・発展に努めてきた。ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(ベストセラーズ)、『阪神タイガースぶっちゃけ話』(清談社Publico)をはじめ著書は80冊を超える。
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