更新日:2025年06月03日 19:16
スポーツ

「4番・サード・長嶋茂雄」に憧れた江本孟紀が振り返る“唯一の対戦機会”「結果なんてどうでも良かった」

自身の誕生日に開催されたオールスターでついに…

そして翌74年、ついに長嶋さんと対戦する機会に恵まれた。7月22日に西宮球場で開催されたオールスター第2戦だった。私がこの日付を今でもよく覚えているのにはワケがある。私の27回目の誕生日だったからだ。 この年は前半戦までで9勝7敗、防御率2・88という成績を挙げ、監督推薦で選ばれた。73年にも選ばれていたが故障でやむなく出場辞退したため、なおさら意気込んでいた。しかも第2戦で私は栄えあるパ・リーグの先発ピッチャーとしてマウンドに立ったのだ。 この試合の両チームのスターティングメンバーは、次の通りである。 【先攻:セ・リーグ】 1番ショート 藤田平(阪神) 2番レフト 若松勉(ヤクルト) 3番キャッチャー 田淵幸一(阪神) 4番ファースト 王貞治(巨人) 5番サード 長嶋茂雄(巨人) 6番ライト 山本浩二(広島) 7番センター 柴田勲(巨人) 8番セカンド 三村敏之(広島) 9番ピッチャー 江夏豊(阪神) 【後攻:パ・リーグ】 1番センター 福本豊(阪急) 2番セカンド 桜井輝秀(南海) 3番ファースト 加藤秀司(阪急) 4番ライト 長池徳二(阪急) 5番レフト 土井正博(近鉄) 6番ショート 有藤通世(ロッテ) 7番サード 羽田耕一(近鉄) 8番キャッチャー 中沢伸二(阪急) 9番ピッチャー 江本孟紀(南海) 江夏と投げ合い、王さん、長嶋さんと対戦する──。それに加えて、大学時代の1学年先輩だった田淵さんや山本さんとも勝負ができる。「これが夢の舞台なんだな」と、試合前は緊張しながらも、ワクワクした気持ちもあった。 だが、一番に対戦したかったのは、誰が何と言おうと長嶋さんだった。私のボールがどれだけ通用するのか、小細工なしの真っ向勝負で挑んだ。

無我夢中で腕を振った結果は…

2回表。先頭バッターの王さんをキャッチャーフライに打ち取った直後、その時が来た。 「5番サード、長嶋、背番号3、読売ジャイアンツ」 場内に長嶋さんの名前がコールされると、スタンドから一斉に歓声や拍手が沸き起こる。小学生の頃から憧れだった、あの長嶋さんとオールスターの舞台で対戦できる──。私は胸の高ぶる気持ちを必死に抑えながら、「フォアボールはダメ。打たれてもいい。とにかくど真ん中に思い切り投げよう」と無我夢中で腕を振った。 結果は──。サードゴロとなり、羽田がさばいてファーストに送球した。 本音を言えば結果なんてどうでも良かった。ただ、「夢の舞台で長嶋さんと真剣勝負ができたこと」。それだけで十分に満足していた。 結局、この試合は3回を投げて打者11人に対して被安打2、奪三振1で無失点に抑えたのだが、それ以上に「憧れの長嶋さんと対戦できた」喜びの方が格別だった。 同時にこの年長嶋さんと対戦できたことは本当に光栄だったと思っていた。なぜならこの年限りで現役を引退されたからだ。 長嶋さんはこの試合の4回表に、ノーアウト一、二塁という場面で打席が回り、近鉄の神部年男さんからレフトへ本塁打を放った。プロに入って初めて生で見る長嶋さんの放物線を描く当たりを、私は一塁側のベンチからあっけにとられながら見ていたのを、まるで昨日のことのように思い出す。
次のページ
長嶋さんのような人は「おそらく二度と出て来ない」
1
2
3
4
5
1947年高知県生まれ。高知商業高校、法政大学、熊谷組(社会人野球)を経て、71年東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)入団。その年、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)移籍、76年阪神タイガースに移籍し、81年現役引退。プロ通算成績は113勝126敗19セーブ。防御率3.52、開幕投手6回、オールスター選出5回、ボーク日本記録。92年参議院議員初当選。2001年1月参議院初代内閣委員長就任。2期12年務め、04年参議院議員離職。現在はサンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送を中心にプロ野球解説者として活動。2017年秋の叙勲で旭日中綬章受章。アメリカ独立リーグ初の日本人チーム・サムライベアーズ副コミッショナー・総監督、クラブチーム・京都ファイアーバーズを立ち上げ総監督、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督として北京五輪アジア予選出場など球界の底辺拡大・発展に努めてきた。ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(ベストセラーズ)、『阪神タイガースぶっちゃけ話』(清談社Publico)をはじめ著書は80冊を超える。
記事一覧へ