更新日:2025年06月03日 19:16
スポーツ

「4番・サード・長嶋茂雄」に憧れた江本孟紀が振り返る“唯一の対戦機会”「結果なんてどうでも良かった」

長嶋さんのような人は「おそらく二度と出て来ない」

ルーキーイヤーから16年連続してファン投票のオールスターで選出された長嶋さん。このような人は、今後のプロ野球界ではおそらく二度と出て来ないだろう。 長嶋さんの引退された最後の年にオールスターで対戦できたこと、レフトに放った本塁打、さらに私の27回目の誕生日にこのような形で対戦ができたこと自体、生涯忘れることのない、最高のバースデープレゼントとなった。 1975年のオフに、それまで在籍していた南海からノムさんに「旅に出ろや」と言われて阪神に移籍することになったが、私はノムさんを恨んだりしていなかった。なぜなら 「あの長嶋さんが監督として指揮する巨人と対戦できる」と胸躍らせていたからだ。 当時からすでに「人気のセ、実力のパ」と言われていたが、阪神のホームである甲子園球場、巨人のホームである後楽園球場のマウンドで投げられるなんて、幸運としか言いようがない。白黒テレビを見ていた小学生から中学生の頃、「あんな所で投げられるなんてスゲえな」と羨望のまなざしで見ていた江本少年が、大人になってプロ野球選手となって登場する。しかも巨人を相手に挑むことができるなんて、あの頃の野球仲間に「どうだ、スゲえだろ」と自慢したいところではあったが、いざマウンドに上がると、ひたすら緊張から来る気持ちの高ぶりを抑えるのに必死だった。

同世代が皆憧れる存在だった

結果的に私は阪神にいた6年間で巨人との対戦成績は15勝14敗だった。「巨人キラー」と言わずとも、巨人を苦しめたと言える成績は残せたと思う。 ある年のシーズンオフ。表彰式の場で、当時の長嶋監督とお会いする機会があった。そのとき言われたのが、「元気!?」と、わずかこの一言だけだったが、不思議なくらい緊張してしまったことをよく覚えている。なんと言っても長嶋さんは私にとって「野球の神様」と呼べるような人だから、多少の緊張は致し方ない。 それに長嶋さんに対する憧れは、私たちの同世代は皆が持っていた。若松勉、平松政次、大矢明彦……。長嶋さんに憧れ、野球を始めてプロを目指し、同じ舞台で戦えることに喜びを感じていた男たちの名前を挙げればキリがない。 <談/江本孟紀>
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1947年高知県生まれ。高知商業高校、法政大学、熊谷組(社会人野球)を経て、71年東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)入団。その年、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)移籍、76年阪神タイガースに移籍し、81年現役引退。プロ通算成績は113勝126敗19セーブ。防御率3.52、開幕投手6回、オールスター選出5回、ボーク日本記録。92年参議院議員初当選。2001年1月参議院初代内閣委員長就任。2期12年務め、04年参議院議員離職。現在はサンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送を中心にプロ野球解説者として活動。2017年秋の叙勲で旭日中綬章受章。アメリカ独立リーグ初の日本人チーム・サムライベアーズ副コミッショナー・総監督、クラブチーム・京都ファイアーバーズを立ち上げ総監督、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督として北京五輪アジア予選出場など球界の底辺拡大・発展に努めてきた。ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(ベストセラーズ)、『阪神タイガースぶっちゃけ話』(清談社Publico)をはじめ著書は80冊を超える。
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