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石破首相を「どこまでも醜い、奇妙な生き物」と表現した北村晴男氏。この一件を“個人の暴走”として矮小化してはならない理由

北村氏が石破首相を「醜い」と称する心理

北村晴男

日本保守党の北村晴男氏 写真/産経新聞社

 北村氏が石破首相を「醜い」と称する心理には、彼の主義主張と石破氏の政治姿勢が相容れないものであるという思いがあります。  しかしながら、相容れないと表明しただけでは北村氏自身が正しさや優位性を証明できません。そこで、石破氏のビジュアルを揶揄することで、自らの正義を主張する方法を選んだのです。彼の立場を踏まえて言うならば、“保守ではない石破はブサイクなのだ”というメッセージを込めたかったのですね。(編集部註:29日の会見で北村氏は「外見は全然問題にしていない」と述べた)  石破=醜い=間違っている。こういう論理を打ち立てるために、刺激的な言葉を単純に直列で並べたわけです。  しかしながら、今回の炎上が示したように、この種の表現は自分への逃げ道を塞いでしまうことにもつながります。刺激的なメッセージを強い言葉で伝えようとすると、内容と語句の形状が密接につながっているために、ひとたび間違うと身動きが取れなくなってしまうのです。  つまり北村氏のアジテーションは攻撃に全振りしすぎなのです。

SNSによって加速した“歯止めの効かない軽薄さ”

 かつての政治家は、もっと言葉に対する警戒心を持っていました。「言語明瞭、意味不明瞭」と揶揄された竹下登元総理の分かりづらい国会答弁も、政治家にとっていかに言葉が命取りになるかを知っていたからこその自衛の手段だったのです。  しかしながら、そうした曖昧模糊とした対話の中から、お互いの腹を探り合って、論点、妥協点を見出していく熟成の様が、かつての政治にはありました。  それが様変わりしたのが、平成以降の劇場型政治です。そしてSNSによって加速度的に政治の言語が劣化していっています。 「いいね」をクリックするのと同時に理解できる程度の平面的な文章が秒単位で拡散されていく。その一方で表面的な刺激だけは濃縮され、支持する人達の声も増幅されていく。  そんな歯止めの効かない軽薄さが選挙の主流になってしまったことが、今回の参院選であらわになりました。北村氏の“暴言”は、その象徴的な例なのです。
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SNSが負の感情に対してもたらす“成功報酬”
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4

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