更新日:2025年08月07日 17:33
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「ぎいぃ」戦友の最期の言葉。東大卒の祖父が明かす“戦場の残虐行為”と“人間の本質”。孫に託した日中戦争の記憶

ぎいぃ。彼が人生の最後に残した言葉である。

戦車イメージ生成画像 前方を見ると、敵塹壕に取りついた味方の兵が、塹壕内に機銃弾を撃ち込んでいるのがわかった。  軍刀での白兵戦も目に飛び込んできた。  芋刺しになった敵兵の背中から、筋の入った赤身が見え、そこから血と体液が跳ねていた。手榴弾が炸裂するたびに、数人の兵士が身体を撓ませながら吹き飛び、頭蓋の皮がめくれ、血の花が曼珠沙華のように咲いた。  私は人間の肉体のあまりの脆さに驚いていた。砂が焦げる匂いのなかで、無数の生と死が交錯しているのだった。  やがて膝頭が微かにがくがくと震え始め、それを止めることができなくなった。瞼に家族の姿と故郷の景色が浮かんだ。しかし、その像は少しぼやけていた。焦点が合わないのだ。私は生への執着を感じ、改めて恐怖を自覚して慄いた。  銃声は止まず、目の前で人が無造作に殺され続けていた。  まだ死にたくない。この馬鹿野郎。助けてくれえ。殺してやる。嫌だあ。噓だろう。しっかりしろ。このチャンコロめ。俺もすぐいく。お母さあん。お母さあん。お母さあん。  ぎいぃ。腹が裂けて流れ出たぶよぶよとした腸を、自らの両手で必死に塞き止めようとしていた男が、少し蠢き、涎の糸を垂らし、痙攣しながら発した音だった。歯軋りと唸り声の混ざった、彼が人生の最後に残した言葉である。  それは兗州以来、ずっと一緒だった仲間の一人だった。  外気に触れた内臓から湯気が上がる。  私の鼻に生臭い匂いが至った次の瞬間、私は身を翻して再び銃を構え、重心を低く保ちながら尚も前方を目指して駆け出した。私はまた何度も引金を引いた。

この戦闘が戦略上、どれだけの意味を持っていたのかなど知る由もない。

 退却、遁走する敵兵が何人か見えた。敵の弾雨は徐々に弱くなり、勝負の大半は決しつつあるようだった。不利と見ればすぐに退却するのが、普段から聞いていた敵の戦法だった。  裏門から突入した別働隊も攻撃に成功したようで、味方の軽機関銃の連続点射音が勢い良く響いてきた。  その後、日本語の喊声も聞こえてきた。作戦どおり、挟撃することに成功したのだった。  ほどなくして、敵の発砲が完全に止んだ。どれくらいの時間が経っていたのか、見当もつかない。  銃声が聞こえなくなってから、私の微弱な思考が緩やかに回復してくる。私は人間の髄というものを見た思いだった。  新たに掲げられた日章旗が風になびき、笑顔を見せる戦友も多くいたが、私には何の感慨もなかった。こんな辺鄙な場所に旗を一つ立てて、それが何になるのだろう。  私たちは多大な犠牲を払って、結局、数十人の捕虜と、迫撃砲や重機関銃、チェッコ機銃などの兵器をいくつか鹵獲しただけだ。  この戦闘が戦略上、どれだけの意味を持っていたのかなど、私たち末端の兵隊は知る由もない。こんな旗一つ掲揚するために、私ははるばる東京から連れて来られたのか、と思った。
(はやさか・たかし)1973年、愛知県出身。ノンフィクション作家。著書に『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(共に文春新書)、『戦時下の箱根駅伝』『戦争の昭和史』(共にワニブックスPLUS新書)、『戦争の肖像 最後の証言 真珠湾、インパール、特攻、硫黄島、占守島……』(ワニブックス)、『大東亜戦争秘録』『評伝 南京戦の指揮官 松井石根』(共に育鵬社)などがある。
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