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広陵高校の部内暴力問題は“必然”だった…逆境を耐え抜くために繰り返されてきた「文化的ドーピング」という闇

逆境耐性を鍛える戦術としての「常在戦場」

なぜ日常をストレスで満たすと、野球の試合で逆境に強くなるのか。それは試合の時間だけは「ストレスフルで危険に満ちた日常」から一時的に解き放たれ、「日常より試合中のほうがマシ」という感覚に至れるからである。下級生は上級生からの圧力、上級生は指導者からのプレッシャーにより、立場は違えど常に高いストレス環境に置かれる。そのため、序列のどこにいても「日常より試合が解放区」という感覚が共有される。もちろんこの手法は倫理的に問題がある。だからこそ私は本稿冒頭で「文化的ドーピング」と表現したのだ。 100年以上の歴史を持つ日本の高校野球文化の背景には、伝統文化「武士道」が存在している。武士道にはもともと「常在戦場」という概念がある。これは本来、平時であっても常に戦場に臨むつもりで心を備え、周囲の状況を察知しながら生きる=“戦場を生活する”という意味である。この心構えは、戦場ではない日常生活における他者への「礼節」や「配慮」を支える基盤ともなっていた。 高校野球においては長い歴史の蓄積のなかで、武士道の「常在戦場」の意味が「日常全体を暴力やハラスメントで満たし、選手にストレスフルな生活をさせることで逆境耐性を鍛える」という間違った形へと転化してしまったのである。

開星・野々村監督の“異端の現場実践”

もちろん近年の人権意識の高まりーー個人的にはあまりに遅きに失したと考えているがーーのなかで部内暴力やハラスメントは減少傾向にあると考えられる。しかし、高校野球が一戦必勝のトーナメント制で固定されている以上、いつでも今回のように蘇りうる。 私は自著『文化系のための野球入門』のなかで「高校野球における全国大会(=甲子園)は段階的に縮小ないし廃止し、高校生自身が運営主体となる地域でのリーグ戦に主軸を置き直す」ことを提案したが、これは暴力やハラスメントの根本原因となるゲーム性そのものを改善するためのものだ。 もちろん、この提案の実現が難しいことは先刻承知している。しかし、こうした「構造」そのものを高校野球をとりまく人々や社会に向けて顕在化させ、問題の所在を把握してもらうことはできる。「暴力はいけない」という平和主義的スローガンだけでは、高校野球の「(間違った意味での)常在戦場」という人権侵害を止めることはできない。 「常在戦場」のあり方を考える上で、個人的に非常に興味深いと感じているのが、「やくざ監督」の二つ名で知られる島根・開星の野々村直通監督の取り組みである(開星は今夏の甲子園にも出場したが、二回戦で仙台育英に敗れた)。同校のグラウンドには文字通り「常在戦場」という言葉が掲げられ、監督室には日章旗がはためく。 もちろん、こうした取り組みが社会から「異様なもの」と見做されることは野々村監督自身も自覚しているはずだ。だが彼はしばしば「武士道」本来の意味についてメディア上で語っていることから、「常在戦場」の本義も当然把握していると考えられる。
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他校と開星の違いはどこにあったのか?
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編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。
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