スポーツ

「広陵野球部暴力事件」で露呈した“メディアの姿勢”に違和感。問われる“報道の優先順位”

スポーツやエンタメを軽視する「オールドメディア」

朝日・毎日などの「リベラル」メディアは、「冤罪」「紛争」「環境問題」のような“ハード”なテーマには積極的に声を上げる。しかし、ジャニーズや高校野球などの「エンタメ」「スポーツ」といった“ソフト”な分野における人権侵害を軽視する傾向にあることがこの2年であらわになった。もちろん誌面・尺の制約があり、社会的な緊急性も当然考慮されるべき要素なので、報道する内容に優先順位をつけること自体はやむをえない部分がある。 問題なのは、それらのメディアが話題の選別を、意識的にというより“無意識”に行っているように見えることだ。そもそも日本国憲法第14条「法の下の平等」の精神に照らせば、冤罪や紛争などの人権侵害と、エンタメやスポーツの現場で起きる人権侵害のあいだに何らの差異はないはずである。 「スポーツ」「エンタメ」などの“ソフト”な分野における暴力や搾取を軽視することについて「なぜそこに取材リソースを注がないのか」という基準を示さないままでいると、「人権問題の序列」が社会に刷り込まれ、ひいては「法の下の平等」という憲法理念の形骸化へとつながりかねない。 リベラルメディアが高校野球の不祥事を進んで報じない背景には、二つの異なる論理があると筆者は考えている。ひとつは甲子園という「社業」を守るための沈黙。もうひとつは「クオリティーペーパー」を自認するエリート意識から生じる、スポーツやエンタメを“軽い”と見下す態度だ。前者は自己防衛の論理、後者は高尚さを演出する論理であり、動機は異なっても、どちらも人権問題を矮小化する結果をもたらしている。 しかし実際には、スポーツやエンタメの現場は「軽い話題」などではない。むしろ私たちの生活世界に身近な場だからこそ、社会の矛盾や権力構造が露骨に表れる。甲子園やジャニーズの問題を「周縁的」な出来事として処理することは、社会の中核を覆い隠すことに等しい。だからこそ、スポーツやエンタメを「軽い」と切り捨てるのではなく、「社会の本質を照らすフィールド」として捉え直す必要がある。 旧来の新聞社が自らの既得権益やエリート意識から自由になれないのであれば、私たちはそろそろそれらのメディアに「本質的な批判報道」を期待すること自体をやめて、市民自身の成熟と、新しいメディアのあり方を模索すべき時に来ているのかもしれない。自分たちの手でスポーツやエンタメから立ち上がる人権問題を共有し、そこで社会を語る土壌を育てる。そのような姿勢が、これからの民主主義を支える基盤になっていくのではないだろうか。
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。
1
2
3
【関連キーワードから記事を探す】