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『豊臣兄弟!』「秀吉が信長の草履を温めた」は作り話?信長の意外なやさしい一面とは

主君を逃すため最後尾を守る

養源院

浅井長政の菩提を弔うために創建された養源院(Adobe Stockより)

 元亀元年(1570)四月、信長は上洛命令に従わない越前の朝倉義景を倒すべく、三万の大軍で京都から出立した。  そして次々と城を落としていったが、木ノ芽峠を越えてところで、同盟を結んでいた近江の浅井長政が裏切り、浅井軍が織田軍の退路を断ち、朝倉軍と挟撃してきたのだ。  信長は即座に戦線から離脱して事なきを得たが、主君を逃がすため殿(しんがり)を務めたのが秀吉だった。  二カ月後、体勢を立て直した信長は、徳川家康とともに姉川で浅井・朝倉軍を激戦のすえ打ち破るが、決定的なダメージを与えることができず、以後、三年近く浅井・朝倉と抗争に明け暮れることになった。  信長はその後、浅井方の支城である横山城を落とし、秀吉に城将として守らせた。秀吉はこの城を拠点にして、浅井長政の居城である小谷城下や周辺地域にたびたび出兵し、領内を荒らし回った。  さらに、浅井方の重臣や国衆たちに調略の手を伸ばし、巧みに誘降していった。浅井の重臣である宮部継潤を寝返らせるさいには、自分の甥・万丸(智の長男。のちの秀次)を人質(養子)に差し出している。  一族を外交の駒として利用したのだ。以後、秀吉は豊臣一門を外交手段の切り札としてたびたび用いるようになる。

浅井長政との戦いでの功績を認められる

 織田信長はやがて比叡山延暦寺を焼き打ちし、さらに将軍義昭を京都から追放した。  上洛途中の武田信玄が病死すると、天正元年(1573)八月、秀吉が浅井の重臣・阿閉貞往を寝返らせたのを機に、三万の大軍で浅井長政の小谷城へ向かった。  これを知った朝倉義景は、長政の要請に従い、二万の兵で援軍にやってきた。すると信長は矛先を変え、奇襲をかけて朝倉軍を打ち破り、逃げる朝倉軍を追って一乗谷へ乱入して家々を焼き払い、義景を自刃させたのである。  さらに返す刀で北近江へ引き返し、小谷城に総攻撃をかけた。結果、小谷城は落ち、長政は自刃し浅井氏は滅亡したのである。  戦後の論功行賞で、秀吉は信長から浅井長政の旧領・近江国伊香郡・浅井郡・坂田郡十二万石の支配を任された。翌天正二年、秀吉は琵琶湖沿い新たに長浜城をつくり始めた。  城は琵琶湖のほとりにあり、城内に港を持ち、城の近くを重要な街道がいくつも通っていた。こうしてついに秀吉は、足軽から城持ち大名になったのである。  通常ではこの栄達はあり得ない。やはり主君の信長が、能力さえあれば門地に関係なく抜擢してくれる人物だったからだ。  もしあのまま松下加兵衛に仕えていれば、彼は徳川家康に臣従することになるから、秀吉も徳川の陪臣として世を終えたことだろう。
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ねねをなぐさめた!? 信長の意外な一面
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歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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