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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第六章・第三話 堅山賢一編】「やっちゃったマン」/鳥トマト

 出版社・有幻社のライツ事業部で、アニメプロデューサーとして働く堅山賢一。漫画編集者・若林信二の担当コミック『私の理解あるカレ君』を担当している。元部長が仕事を放り投げて異動したため激務を強いられ、2人目を妊娠した妻からは早く帰るように言われて板挟みに。 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第六章(堅山賢一編)・第三話「やっちゃったマン」

 身体がベタベタする。目がゴロゴロする。コンタクトを入れたまま寝てしまったらしい。起き上がろうと思って手をつくと、ぷにっとした温かい何かに手が当たって、自分が狭いシングルベッドにもう一体の人間と横になっていることに気がついた。  山野だ。  頭がズキリと痛くなり、両手でこめかみを押さえた。なるほど。何よりもまずトイレに行って、シャワーを浴びたい。外はまだ薄暗く、腕のスマートウォッチを見やると五時四十分だった。山野を見る。化粧をしたまま口を開けて寝ていた。もう一人の人間を避けるかたちで、枕もないところに猫みたいに丸くうずくまっている。首が痛くなりそうなポーズだ。山野の首の下に、さっきまで自分の頭の下にあった枕を差し込んでおく。  勝手にシャワーを浴びながら、どうしようかなぁ、と考えていた。家族にはまたラクーアに行っていたと言えばいいだろうし、山野はそもそも相手に家庭があるとわかった上で手を出してきたんだから別に怒ったりもしないだろう。どうするも何も、まあ、こんなもんでしょ。思ったほど罪悪感が来ず、それに対して特に驚きもなかった。やっぱりもう、妻のことは好きじゃなかったんだな。  バスルームから出ると、山野が目を覚まして下着姿でベッドに腰掛けていた。 「おはようございます〜、すみません、あ、冷蔵庫から飲み物取ってきてもらえないです? 頭痛くて。あ、先輩もなんか適当に飲んでいいですよ!」  小型の黒い冷蔵庫を開けると業務用みたいにラベルのないペットボトルがたくさん入っていた。山野にそれを渡しながら部屋を見渡す。女性の部屋らしからぬ質素さだ。全体的に物が少ない。 「私、転職して、引っ越してから家で過ごす時間がほとんどないんですよ〜。だからなんか寝るだけの部屋みたいになっちゃってるんですよね〜」  体育座りでゴクゴクと喉を鳴らしながら水を飲む山野を見ていると、相変わらず猿みたいだな、という感想が湧いてきた。この子はこういうことに慣れてるんだなと思い、安心する。 「カーテン、何色がいいと思います?」  山野が唐突にベランダの方に下がっている茶色いカーテンを指さす。 「アレなんか引っ越してきたときについてたカーテンのままなんですよね。地味すぎですよね」  確かに薄いし、なんだかペラペラだ。 「ピンクとかがいいんじゃない?」 「は? チョイスおじさんすぎ。ウケるんだけど」  何が面白いのかわからないが、山野は何を言ってもずっとケラケラと笑っている。自分と寝た後の若い子が、自分の言葉で笑ってくれると安心する。まだ、嫌われてない。まだ、大丈夫なんだ。 「昨日、楽しかったですか?」  唐突に山野にあけすけなことを聞かれて面食らいつつ、軽く頷くと山野は「よかった〜。私だけ楽しんでたらどうしようって思ってました」と言いながらペットボトルの水を全部飲み干した。 「先輩だって、たまには楽しいことあったっていいですよね。日頃あんなにお仕事頑張ってるんだから」  山野に「頑張っている」と言われて思わず頰が緩んだ。そんな子供みたいな褒められ方して嬉しいなんて。 「何ニヤニヤしてるんですか〜?」  山野がイタズラっぽい顔で聞いてくる。 「いや、頑張ってるって言われると嬉しいね」  自分の口から素直な感想が出てきて驚いた。会社の後輩のベッドでパンツだけ穿いて状態で、何を言っているんだろう。 「そんなことで嬉しいんですか? そんなに日頃誰にも褒められないんですか? 奥さんとか褒めてくれないの?」  山野が眉を左右非対称に上げて、いぶかしげに聞いてくる。最近、褒められた記憶を探してみる。妻も、上司も、同僚も、誰一人僕に「ありがとう」とも「頑張ってるね」とも言ってはくれなかった。この年になったらもう、結果を出していないのに評価されることなんか、ない。おじさんが頑張るのは当然のことであり、頑張っているかどうかなんてきっと、どうでもいいことなんだろう。 「そんなに褒められないなら、私がいっぱい褒めてあげますよ!」  山野が四つん這いになって頰を指でつんつんしてくる。 「先輩は頑張ってますよ! い〜っぱい頑張ってます」  山野につつかれて、自分の頰が割れたように感じた。卵みたいに、社会的にまとっていた薄く硬い殻が割れてパキパキと床に落ちる音がする。 「私もシャワー浴びてこよ〜」  山野はぴょんとベッドから飛び降りると「昨日、おじさんなのにめちゃくちゃ可愛かったですよ」と言って最後にもう一回、頰を指でつついてからバスルームに行ってしまった。  一人になった部屋で自分の顔を触った。身体を覆っていた膜のようなものが破れて剝き出しになった気分だ。そうだ、俺は頑張っているんだ。俺はもっと褒められていいし、もっといいことがあってもいいはずの男なんだ。    茶色くて薄いカーテンをめくり、ベランダの窓を勝手に開ける。山野のマンションは高いフロアにあって、目の前の建物の背が低いおかげで、かなり遠くまで景色が見える。コンタクトを外して眺める朝焼けが始まりそうな街は、絵画みたいに美しかった。もう十一月なのに秋の始まりくらいの涼しさで、入り込む風も快適だ。朝ってこんなに気持ちがいいんだな。今日までそういう、人として当たり前のことすら思い出せなくなっていたことに気づいた。  昨日起こったことと、自分の罪悪感のなさについて考えた。俺って最悪な人間だったんだ。でも、人の人格や倫理観なんて、実は会社も妻も、大して気にしてないんじゃないか? だって会社は社員がちゃんと働いてさえいればよくて、妻は配偶者が家にお金を入れて、自分の子供の世話や家事なんかの労働力を提供していれば満足なんだから。本当の俺がどんな人間かなんて、もともと誰も見ていなかったのだ。  そもそも会社や家庭が俺を倫理観ゼロなレベルで追い詰めているのに、会社や家庭の側から倫理観を求められるのって、おかしくないか? 会社や家族のためにいくら人生を削っても、誰も俺の削れた部分を見てはくれなかった。削れた部分を直視して優しく撫でてくれたのは山野だけだったじゃないか。  朝に帰ったら、また家にチェーンでもかけられているのかもしれない。でも家に入れなければまたどこか、昼なら会社、夜ならスーパー銭湯にでも行けばいいのだ。ぶっちゃけ山野とのことだって、バレても構わない。妻の「いい加減にして」と叫ぶ醜い顔が脳裏に浮かぶ。「あなたのこと嫌いになっちゃいそうだからやめて!」だってさ。  朝日が昇ってだんだんオレンジ色になっていく街を見ながら、水を飲んでいると変な笑いがこみ上げてくる。俺の苦しさを思い知れ。最低の人間を見せてやる。それでもまだこちらに何か、良き夫、良き父の演技を期待するのか? 俺だってお前のことなんか、もう嫌いだよ。 鳥トマト 堅山賢一…39歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。前職で上司と不倫して退職したという噂がある
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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