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アントニオ猪木が回想する力道山との“最後の会話”。「急死した理由は暴飲暴食」の都市伝説にも言及

力道山の解剖に立ち会った猪木

1963年(昭和38年)12月15日、力道山は2度目の腹膜炎の手術を無事に終えたが、その夜に容態は急変。21時50分頃、帰らぬ人となった。 「亡くなった時、俺は病室とは別の部屋にいたはずですね。その後、親父は慶應大学病院に運ばれて解剖されたんですが、俺はその現場に立ち会ってますからね。解剖室には入ってないんですけど、当時の病院は古くて、俺は背が高いから部屋の上窓から解剖してるところが見えちゃうんですよ。親父の体が切られているところをね……。その晩がお通夜だったのかな。大騒ぎでしたね。 20歳になれば大人なんだけど、俺たちはまだ世間を知らないわけですよ。財産とか組織に関しては無頓着で。親父が死んで悲しみに暮れている一方で、今後に関する争いも起きていたわけですからね。嫌な世界を見たというか。死んだばかりだというのに、そんな揉め事が起きてしまう理由もわかります。多くの人間が、力道山が亡くなったと聞いて、もうプロレスがなくなると思ったんじゃないですか。力道山がいないプロレスは、もう終わりだと。 世間をよく知らなかった俺ですが、あの時、一つだけ思ったことは、プロレスはなくならない、ということです。なんで?って言われてもわからないんですけど、そう思いたんです」

怒り、怨念こそが力道山のエネルギー

力道山がつくり上げたプロレスは、力道山が不慮の死を遂げても消えることはなかった。力道山の弟子たちがプロレスの灯を絶やすことはせず、猪木はプロレスというジャンルを超えた挑戦や世間を振り向かせる試みを繰り返すことで、現代のプロレスや格闘技の礎を築くことになった。その原点は力道山の魂から始まっている。 「戦後のスーパーヒーローは何人も生まれたと思いますけど、力道山という存在はそんな比じゃないというね。 非常識で生き抜いたあの価値観がいいか悪いかを別にして、俺は親父に出会ってなければ違った人生を送っていたんでしょう。興行とは何か?──を親父から教わったわけではないんですけど、興行にとって必要な絶対的な派手さ、パフォーマンスのうまさ。池に石を投げてポチャンと沈んでしまうのか、それとも大きな波紋を起こしてどんどん広がっていくのか。親父のあの生き方から、そういうメッセージを受け取りました。 もちろん力道山本人がどう思っていたのかはわかりません。でも、多くの国民はリングで闘う力道山の姿や、あの空手チョップから元気をもらっていたわけです。再び立ち上がっていく自分たちと重なり合わせてね。 では、あの力道山のエネルギーとはなんだったんだろう? と。相撲時代には、その出自から差別を受けたことで髷を切って廃業したという話があり、そうやって虐げられてきたなか、思いもよらない形で戦後日本のスーパースターになってしまった。親父も非常識、矛盾の中で生きてきたんです。その怒り、怨念こそが親父のエネルギーだったんでしょう」 戦後日本の復興の象徴だった力道山は、同時に戦後の日本社会に潜んでいた差別や混沌の顔を併せ持っていた。その力道山の表と裏の顔から発せられた、ほとばしる熱を受け止めていた猪木も一度は祖国を諦め、再び祖国に夢を見るという因果な運命を抱えていた。 「俺が現役の晩年に、親父の祖国・北朝鮮で『平和の祭典』(95年4月)を開き、リングに上がって試合をしたのは、親父との“最後の会話”があったからですよ。親父には望郷の念があったんだと思いますが、あの当時は叶わなかった。今思えば、あの『そうだろ?』の一言と満面の笑みは、親父が残した遺言状みたいなものだったんです」
『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)

『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)

<取材・文/ジャン斉藤>
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