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ジャイアント白田(47歳)が語る“第二の人生”。激戦区の大阪なんばで「15年以上」串カツ店を経営し続けるワケ

盟友・小林尊と繰り広げた激闘の記憶

ジャイアント白田

盟友・小林尊氏と

――小林尊さんが出場していた「ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権」は、まさにスポーツでしたね。 白田:僕も一度出場しました。ただ、当時はサラリーマンをしていたので、営業先での話のネタになると思っていて。一方で、現地の盛り上がりはすごかったですね。尊に続く強い日本人選手が来るということで、かなり注目されていました。ただ、僕はほとんどトレーニングをしていなかったので、正直、かなり気まずかったです。 ――2004年の大会ですよね。12分間で白田さんは38.5本を完食して準優勝しましたが、優勝した小林さんは59.5本と、20本以上の差をつけていました。 白田:尊の食べ方は異次元でした。ロケット鉛筆のようにソーセージを次々と喉へ入れ、水に浸したパンで押し込んでいく。ほとんど息継ぎをせず、1分間に6本ほどのペースで平らげていくんですよ。当時を振り返ると、かなり激しい食べ方もしていました。批判されることもありましたが、選手同士が本気でぶつかる場として、ものすごい熱量があったんです。本当に総力戦でした。 ――あの時代を共にした人たちとは、今も特別な感覚がありますか。 白田:ありますね。大食いはかなり特殊で、ニッチな世界です。そこで経験したことは、選手同士にしか分かりません。「あのときのあれは、すごかったよね」と今でも共有できるんです。ある意味、青春のようなものですね。ものすごく濃密な時間を共にした仲間なので、今でも仲はいいですよ。

未経験の串カツ店に見出した勝機

――確か、当初は東京で飲食店を考えていたんですよね。 白田:そうです。東京で地ビールバーを開く予定で、物件も開業時期もほぼ決まっていました。ただ、新築物件の計画が進まなくなり、最終的に時期未定になってしまったんです。そこで大阪の物件資料を見ると、一等地でも東京より家賃が安い。この条件なら大阪でできると思うようになりました。 ――地ビールバーではなく、串カツ店になったのはなぜですか。 白田:そのビルが「大阪名物グルメビル」というコンセプトで、たこ焼きやお好み焼きの店は決まっていましたが、串カツの業態が空いていたんです。テナント誘致を担当していたのが以前からつながりのある会社で、「串カツをやってみたらどうですか」と提案されました。 ――串カツの知識や経験はあったのでしょうか。 白田:正直、ありませんでした。ただ、調理師学校時代から多くの店を食べ歩き、自分なりに「いい飲食店」を見極める基準は持っていたんです。開業前にはさまざまな串カツ店を回り、価格や食材、ボリュームなどを比較しながら、串カツ店としての具体的な基準を作りました。 そのなかで、自分が納得できるものを出せば勝負できると感じたんです。他店と同じくらいの価格で、食材の質とボリュームでは上回る。「この値段でこれだけのものが出てきたらうれしい」と思える串カツを目指しました。
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あっという間に終わった“有名人効果”
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大阪府出身のフリーライター。関西圏のインディペンデントカルチャーを中心に、インディーズバンドやライブハウス、レコードショップ、ミニシアターなどを取材。現場の雰囲気や表現者の背景、地域に根づく文化のつながりを文章で伝えている。これまでにプレジデントオンライン、All About、Skream!、Lmaga.jp、Meets Regionalなどへ寄稿。 X:@toyoki123

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