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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(27)

 行く、と言っても当時のわたしは一手に最大で5万HKDくらいしかベットできなかった。資本が足りない。

 同席した他の打ち手たちも、ここが勝負と読んだようだ。

 5万ドル・10万ドルと張っていく。

 紫の羅紗(ラシャ)の上には、総額100万HKDを越えるベットが載った。

 受けきれなくて庄家流れ、と思ったら、おっさんが懐(ふところ)から、なにやら書類を取り出し、中盆がそれをすぐにチップとビスケットに換えた。

 さて、勝負である。

 札撒きのディーラーが、4つの骰子(さいころ)が入った鉄製のカップを振ろうとした、まさにその時である。

 わたしの隣りに坐っている、見覚えがある怖い顔の男が、低いがどすの利いた声で、言った。

「待てよ、待ってろ」

 日本語だった。

 そして100万HKDの赤色ビスケットを、自分のボックスに叩きつける。

 ええ~っ? 潤ちゃんなの。

 わたしは椅子からコケそうになった。

 でも、この勝負が終わるまで、その動揺も狼狽も表わさない。大一番の場の呼吸を乱してはいかんのじゃ。

 結果は、「庄家」が「眼に血が入っていた」にもかかわらず、踏ん張った。

「庄家」のおっさんは、イー・ウォンという手牌である。

 低手は2というバナナながら、高手に役(やく)のウォンをもち、全ボックスと生(チャオ)のプッシュ(=引き分け)の組み合わせ。

 幸運だったのか不運だったのか不明のところ、「庄家」のおっさんはバンク・マーカーを札撒きディーラーに投げ返した。もう狙うわけにいかない。

「潤ちゃんだったの?」

「ヒロシさんか。どうもそうじゃないかと感じていたけど、怖い顔のおじさんにフシつけてもいけない、と思って」

 と潤ちゃん。

 断言できる。あんたの顔の方が怖い(笑)。

 博奕は中断だ。

 わたしたちはハコを出て、道路を隔てた火鍋屋で20年振りの再会を紹興酒で祝った。

 そこで聞いた潤ちゃんの話は、危なっかしくて書けるものじゃない。

 いや、それ以降もマカオやOZ(1991年に公認カジノに『牌九』が導入された)で聞いた潤ちゃんの軌跡も書けない。

 ただはっきりとわかったのは、

 ―-日本とは全体がグレイ・ゾーンの国、

 ということだった。

     *       *       *       *

 潤ちゃんも無事に再登場したところですが、いろいろな事情が重なり、突然ですが、ここでこの連載をしばらく休止いたします。

 十数年にわたる連載でしたが、休んだのは5週だけでした。

 よくやった、と自分を褒めてやりたい心境です。

 2027年くらいまで、日本には公認カジノがオープンしないでしょう。

 そしてカジノができたとしても、それは巨大なパチンコ・ホールみたいなものになるのではなかろうか、とわたしは危惧します。

 2018年に国会で成立した『IR実施法』(「特定複合観光施設区域整備法」の通称)に記された文言に忠実であれば、そうならざろう得ないからです。

 中国・韓国そして東南アジアから大口の打ち手が来られないようであれば、そもそも「IR議連」がモデルとしているシンガポール型のカジノは成立しません。それゆえラスヴェガス系の大手カジノ資本は、MGMを除きすべて日本プロジェクトから撤退する意向を表明しました。

 MGMは、有利子負債が大きすぎて、退くに退けない。ペダルを踏み続けないと、企業自体が傾いてしまう可能性があるからです。

 まあ以上が自明となり、ぎりぎりの段階で、日本の警察は「パチンコでの三店方式」のような詐術を編み出してくるのかもしれません。しかしそれでは、日本のパチンコ資本による、「テーブル・ゲームもある巨大なパチンコ・パーラー」ができるだけではなかろうか、とわたしはきわめて悲観的です。

 6~7年先の話なので、どうなるかは不透明です。

 おまけに日本の政治は、利権がすべてに優先します。汚職、贈収賄、利益供与といったところで、どんでん返しが起こるかもしれません。

 マカオやシンガポール経由でわたし宛てに入ってくる情報によれば、日本にシンガポールあるいはラスヴェガスにあるようなメガ・カジノは、未来永劫できないだろう、ということでした。

 本来、塀の内側でしゃがんでいなければならないような連中が、立法・行政・司法にかかわらず、日本の権力機構の中枢を握っているからです。

 ここで愚痴を並べても詮無いこと。

 コロナ禍あるいは迫りくる財政破綻等で、あまりめでたくもない新春かもしれませんが、よろしくお迎えください。

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(26)

 ワンボックスのベット枠に2万HKD、3万HKDと積み上げられている。

 したがって庄家は、賭金総量をカヴァーしなければならないので、約20万HKDを卓中央に供出していた。

 たった一手に、当時のカネで、800万円前後がその所有者を替えた。

 当時のマカオなら、800万円もあれば、結構なウオーター・ヴュー付きの一軒家が構えられた。

 まさに、刺さなければ刺される、殺さなければ殺される、という真剣勝負が『牌九』私人卓で繰り広げられていたのである。

 不思議なことに、勝負卓は過熱していない。

 むしろ冷ややかな空気が卓を包んでいた。

 ああ、これが「殺気」というものだ、とわたしは悟った。

 この遠征での成績は散々だった。

 怖くて、手が縮こまっている。

 したがって、行くべきところで行けない。

 負けて当たり前だった。

 初体験で惨敗したにもかかわらず、しかしわたしはマカオでの牌九勝負に魅せられた。

 以降、年に4~5回、訪れた。

 80年代後半に入ると、わたしもマカオの『牌九』卓で勝つことが多くなっていく。

 戦法は、ただひとつ。

 負け込んだ打ち手の眼に血が入り、起死回生というかヤケクソというかで「庄家」をとったときに、攻め込むのである。

 手負いの獣は、狙われる。

 それは『牌九』私人卓で同席する打ち手たちも同様だ。

 マキシマム・ベットの制限は、ない。街角の商店のおっさんみたいな人が、一手で5万HKDなんて平然と賭けていた。
 
 それまでは、ミニマム・ベットでじっと凌いでいたわたしだって、そういう局面では腹を括って行く。

 びびったら、負けだ。勢いがいいときには「庄家」もとるようになった。

 忘れもしない、1990年の中秋節である。

『リスボア』の『牌九』私人卓は混雑していた。

 万ドルチップがどかんと積み上げられ、そして一手ごとにその所有権が替わっていく。

 わたしの隣りのボックスに坐っている、打ち手の顔に見覚えがあった。

 盛り上がった肩の筋肉。顎に古傷があり、額には横にくぼみがあった。鉄パイプの水平打ちを喰らった跡なのか。

 怖い顔である。これだけ印象深い顔なのに、どこで見知ったものなのか見当がつかなかった。

 片言ながら、広東語も話した。場慣れしている。

 それが癖なのか、器用に片掌でチップをシャッフルした。その手首にきんきらきんのロレックスが光る。

 まあ、国籍は不明ながら、そのスジの人であろう。

 あまりかかわりをもたないほうがよろしい、とわたしは考えていた。

 大口のおっさんの一人が、突然崩れた。

「散家」で5万HKDのベットを落とし、次の手で10万HKDのベットをあっさりと失った。

 おっさんの頭に血が昇っていく。

 同席しているだけで、それがわたしにはわかる。

「バンクッ!」

 おっさんが叫んだ。「庄家」をとりますよという意志表示である。

 バンク・マーカーがおっさんのボックス前に移動した。

 さて、攻め頃だ。

 それまでミニマム・ベットで我慢していたわたしも、ここは行く。

 ここで行かなきゃ、いつ行くんだ。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(27)

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(25)

 打ち手の経験の蓄積・技術・技量・能力等が、勝敗結果に影響を与える、とは、言い換えれば、「単純なルール」ではないことだ。すなわちルーレット・BJ(ブラックジャック)・バカラといった種類のゲームとは、基本的な部分で大きく異なる。

『牌九』では、牌の組み合わせが3620通りある。

 その組み合わせのすべてを憶える必要はないのだが、常時100ぐらいの組み合わせを頭の中に描いておかないと、勝負の流れが見えてこない。

 できるだけわかりやすく、『牌九』という「複雑なルール」の賭博ゲームの説明を試みようとも思ったが、いろいろな事情が重なり、時間に制限がでてきたので、一気に話を進めよう。

 1981年にたどり着いたシドニーで、わたしはディクソン・ストリートにあった非合法のカジノをベースとして、『牌九』というゲーム賭博を学んだ。

 前述したが、師としたのはサミーと名乗る、わたしと同年配の中国系の男である。

 サミーは中国系移民社会の裏事情にも通じていた。わたしは『牌九』以外にも、黒社会関連も含め多くのことを彼から学んでいる。

 当時のオーストラリア・ドル(AUD)は、弱り始めた時期ではあったのだが、それでも1AUD=260JPYくらいあったと記憶する。

 イギリスから送金した3万GBPは、6万AUD強に化けていた。

『牌九』を学び出して2か月で、1万AUDが、ディクソン・ストリートの非合法カジノのテーブルの上で、あっという間に溶けた。

 これはしょうがない。挫(くじ)けるものか。

『牌九』という複雑な賭博ゲームを学ぶための授業料みたいなものだった。

 サミーの的確な指導もあり、ゲームのコツを掴みだしたのは6か月ほど経ってからか。

 怯まずに「庄家」をとるようになったのも、この時期だった。しばらくは「行って来い」の状態が続き、1982年末より、勝つことの方が多くなる。

 破竹の進撃が開始されたのは、1983年の春節を過ぎてからだった。

「じゃ、そろそろ本場で打とう」

 と、サミーにマカオに連れていかれた。

 もちろん『牌九』の元祖・本家とも呼べる『 リスボア(澳門葡京酒店=現在のオールド・リスボア))』だった。

 いまではその片鱗さえうかがえないのだが、当時澳門外港から 澳門葡京酒店へ向かう友誼大馬路は、アスファルトが剥がれ、砂ぼこりが舞う道だ。

『リスボア』のすぐ前が、海なのである。

 入り江には無数のシロサギが、羽を休めていた。

 ヒラ場にも『牌九』卓はあったのだが、わたしは奥にある「私人卓(プライヴェート・ルームのこと)」に連れていかれた。

 当時マカオのカジノの高額卓では、原則として現地通貨のMOP(マカオ・パタカ)ではなくて、香港ドルだけを使用していたし、現在でも『金御會』を除けば、そうなっているところがほとんどであろう。

 1983年にHKD(香港ドル)は、USD(米ドル)ペッグ制を採用し1USD=7・8HKDで固定されていた。わたしが最初にマカオに行ったころは1HKD=41JPY前後だった(現在は、1HKD=13~15JPY)と記憶する。

『リスボア』の『牌九』私人卓に脚を踏み込んだとたん、わたしは息を呑み、その次に凍り付き、そして腰を抜かした。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(26)

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(24)

 1980年代初頭に、わたしが学び、そしてのちに専攻することになった『牌九(パイガオ)』とは、先述したが打ち手がもつ経験の蓄積だとか技術・技量が、勝敗にそれなりに影響を与える種類のゲームである。  すなわち運の要素はある […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(23)

 この『牌九』を専攻したおかげで、わたしはシドニーに着いてから以降、40年間という永きにわたり、博奕(ばくち)という修羅の場で生き残れたのだろう。  ルーレット、BJ(ブラックジャック)、バカラ等を専攻していたら、とっく […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(22)

 総括してみると、英国におけるゲーム賭博のトータルでは、まだずいぶんと浮いていた。  それでもバースにおける一連の敗北(8か月間ほどつづいたものだった)を素直に認め、撤退して自らに2年間の放牧を課した。ササ針治療はもう充 […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(21)

 実質的に一党独裁で政治的には問題があるといえ、年収とか充実した住環境の提供とかいった待遇面では、シンガポールの大学からのオファーが圧倒的によろしかった。蛇足だが、日本だって「実質的に」は、一党独裁である。  しかし、 […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(20)

 博奕(ばくち)を楽しむようになってしまえば、いろいろとあるのだろうが、まあ最終的には必ず負ける。  当たり前だ。  何度でも繰り返すが、そういう仕掛けが組み込まれて成立しているのが、ゲーム賭博というものなのである。   […]

2020.11.12 | 

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(19)

 ヴィクトリア朝時代のセントジェームズ・スクウェア近辺には、貴族や金持ち相手の違法カジノが数多く存在した。  警察も、これらの違法カジノを取り締まることはせず、いわゆる「当局黙許」の状態だ。  ヴィクトリア朝といえば、地 […]

2020.11.05 | 

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(18)

 経緯をお知りになりたい方には、やはり『無境界家族(ファミリー)』(集英社文庫)のご高覧をお奨めする。  自分で言うのは、おかしいかもしれない。しかし、20年近くも昔に書かれた雑誌連載であるにもかかわらず、近代の捏造物で […]

2020.10.29 | 
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