ばくち打ち
番外編その3:「負け逃げ」の研究(13)
一手で450万円の配当を受け取ったわたしは、そのままケージ(=キャッシャー)に向かう。
なんてことは、やはりなかった。
そこまで、人間ができていない。
朝方博奕での勝利分を含めると、この日の「日当」は、すでに50万HKD(750万円)を超した。
前日の他のハウスでのアガリ分を合わせれば、1000万円ちかい。
あと200万円ちょっとで、過去3戦で失った1200万円を取り戻せるのだ。
ここは一気に行くべきだろう、とわたしは思った。
残り、たったの200万円相当なのだから。
じつは、200万円というのは大金だ。
充分理解しているつもりなのだが、博奕場ではそれがわからなくなってしまう。
ロバート・グッドマンが指摘した、「希望の病理」の罠にがんじがらめに捕らえられる。
チップを考え出した奴は悪魔である。
この言葉を忘れてしまう。
それまで、背後に立って観戦していたのだが、わたしも卓に坐る。
デポジットを引き出す必要もなかった。
前手でのマートイ・タイの勝利分30万HKD(450万円)が原資である。
ただしこの30万HKDは、キャッシュ・チップで配当されたものだから、またまた、
「ちょいと、失礼」
と断り、Iさんから同額のノンネゴシアブル・チップと交換してもらう。
ローリング娘を呼びたくなかったからだ。
やはり、「博奕のリズム」。
これが途切れることを避けたい局面なのである。
勝っているときは、それまでと同じことを繰り返したい。
ここいらへんでは、「ツキが逃げていくから」、とローリングを拒否する教祖さまとあまり変わりはなかった。
ただし、教祖さまの方は、負けていてもそうなのだが、わたしの場合は勝っている局面だけ。
そういえば、教祖さまの坐るバカラ卓は静かなものだった。
ずるずるとやられているのか。
「次のクー(=手)は?」
やっと地上に舞い戻ってきたIさんに、わたしは訊いた。
「そのまま、残しましょう」
とIさん。
つまり、前手での勝ち金は回収するが、オリジナル・ベットは置かれたままにしよう、ということである。
わたしにとって、イロモノへの3万HKDのベットは大きすぎる。しかしここはまあ、30万HKDを稼がせてくれたことに対するご祝儀みたいなものだった。
甘い。
その批難は、受け入れよう。
やっぱりそんなに好都合にものごとは進行しないもので、このクーでは、トイチもタイも起こらずに、プレイヤー側は3という情けない持ち点ながら、バンカー側が4から3枚目で7を引き自滅した。
Iさんのプレイヤー側10万HKDのベットに、勝ち金が付けられる。
ナチュラルなんか起こすより、ずっと気持ちがいい勝ち方だった。
Iさん、絶好調。
こういうときは、つまらぬ意地など捨てて、絶好調の打ち手に乗る。
博奕場でのセオリーであろう。
賭金量は異なれども、わたしはIさんのベットに乗った。
勝ったり、負けたりした。
卓上に積まれたIさんのキャッシュ・チップ(つまり、勝利したときに付けられるチップ)は、どんどんと増えていく。
ノンネゴシアブル・チップ(つまり、ベットするためのチップ)を含めたわたしのそれは、どんどんと減っていく。
おかしい。
駒(コマ)の上げ下げが狂っている。
濡れ手に粟で儲けた30万HKDだと思い、勝負に参加したのが間違いだったのか。
額に汗して得た30万HKDだろうと、事故のようにして稼いだ30万HKDだろうと、その違いは一切ないはずだ。
両者とも、450万円分の信用がついている、ただの紙っぺらなのだから。
~カジノ語りの第一人者が、正しいカジノとの付き合い方を説く!~
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