番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(14)

 1975年晩春、たどり着いたロンドンでは、ハイゲート地区(N6)にフラットを借りた。

 中心部から5マイルほど北に離れた閑静な住宅街である。ノーザン・ラインの地下鉄駅で、ピカデリー・サーカスなどの都心まで20分圏内で行けるし、周辺には大きな公園がいくつもあって、住環境としては申し分ない。

 このフラットは、2か月ほど先に英国に帰っていた妻が探しておいた。

 わたしがロンドンに着いた頃から、妻のお腹がせり出し始める。

 赤ん坊を、ロンドンのワンベッド・ルームのフラットで産むのか?

 わたしは焦った。

 こうなりゃ、やけっぱちで博奕(ばくち)である。

 わたしには、それしか能がないのだから(笑)。

 セックス・ドラッグス・ロックンロールのほうは、いったんお預けとして、わたしは賭博に集中した。

 この頃の英国のギャンブリング・ハウスは、メンバー制のものばかりである。

 現在のジェンダーに関するコンシャスな社会では受け入れ難いだろうが、砕けて言うと、“ジェントルメンズ・クラブ”と呼ばれる施設だけで、ゲーム賭博は公式的に許可されていたのである。

 当時“ジェントルメンズ・クラブ”のメンバーになるには、会員2名の推薦とそのクラブの格に合わせた所有資産の証明が必要だった。

 東洋から来た風来坊に、この敷居はとてつもなく高い。

 しかし、簡単にクリアできてしまった。

 妻の父親が英国外務省の高官で、ロンドン中心部数ヵ所の“ジェントルメンズ・クラブ”の正会員だったからである。

 環境は整った。へんな言い方かもしれないが、わたしは全身全霊を籠めて博奕に取り組んだ。

 髭面・長髪のむさい東洋男が、“A”とか“C”とか、世界に轟きわたる名門カジノで、ときとしてマスコミに登場する世界中のセレブたちを相手とし、博奕を打ったのである。

 当時“C”の方には、敵軍の将だったはずの山本五十六に関する新聞切り抜きや写真などが壁に飾ってあった。なんでも戦前のロンドンの日本大使館で山本五十六が駐在武官をしていたころ、足繁く“C”に通っていたのだそうだ。

 当時のわたしの専攻種目は、初心者にもわかりやすいルーレットだった。たまに『プント・バンコ(=ヨーロッパ流バカラ)』の札を引く。

 こっちは崖っぷちの勝負だ。

 生活が懸かっている。生まれてくる子供の将来も懸かっていた。

 一歩引けば、そこは奈落。下がるわけにはいかないのである。

 背水の陣、というよりは、存在を賭したぎりぎりの戦いだったと思う。

 気合いが入っている。体内に取り込んだ空気の量だけなら、クラブに居る他の誰にも負けない自信があった。

 真夏のある日、グリーン・パークにあったクラブのルーレット卓で、ブラックのツラが13目(もく)起きた。

 その翌日も、そのまた翌日も。

 わたしがフロアに居る間に、これが6日間つづいたのである。

 7日目には、なんと17目のツラだった。(つづく)

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2020.10.01 | 

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。