心臓病になってすぐにガンを憂う [楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第5話)]

入院していた慈恵医大病院中央病棟

入院していた慈恵医大病院中央病棟

ピンピンしているのに安静第一とは


 入院二日目は土曜日だった。

 病院も土曜日には休科のところも多く、特段の検査や来診もなかった。

 ボクが入ったのは循環器科の病棟で、願わくばと言って、個室を希望した。個室希望の理由といえば、第一に、テレビ稼業で禄を食んで来ながら、当節あまりテレビを視ていなかったので、この際できるだけテレビを視たかったこと。

 第二に、テレビの企業史をまとめるため、人物伝や経済史、技術史関係の読書や資料調べをしたかったこと。

 第三に、連れ合いから常に「寝言が多いよ」と言われていたので、変なことを言ったら恥ずかしいし、同室者に迷惑をかけたくなかったことなどがある。こういうこともありなんとして医療保険もかけていた。

 幸い、一室が開いていた。窓外には増上寺や東京タワーが見えた。体はピンピンしていたので、近くに行って見たい気持ちに駆られたが、歩くのは病室の中だけ、室外に出るときは車いすで看護師さんに押してもらうことと言われていたので、遠望だけにとどめざるを得なかった。

 とにかく安静第一なのである。ただ、個室なので、外部との携帯電話連絡が自由にできたことはありがたかった。

 まず、弟妹達に入院の報告をした。

 渋谷で小さな求人広告代理店をしている次弟には「狭心症で入院したこと、本人はいたって元気なこと、本や看護用品の購入についていろいろと頼みたいこと」などを話した。

 次弟は10年ほど前に、肝細胞ガンで日赤病院に入院したことがあり、入院生活では先輩である。「なんでも言ってよ」と言ってくれた。

 次妹にも同じような話をして、両親の死因などについて確かめた。次妹も2年位前、血液のガンといわれる白血病で入院していたが、今は寛解し普通の生活を送っている。彼女はなぜか記憶力に優れており、昔のことをよく覚えている。
 

我が家はガン家系


「お父さんは肝臓のガンだったよ。しょっちゅう胃が痛いといっては薬を服んでいたけど、結局は肝臓が悪かったのよ。それと、病院やお医者さんが嫌いだった。先生のいうことを聞かず、少し良くなると自主的に退院してしまうくらいだから、長生きはしないよね」

 ボクは早く独立して家を出てしまったので、父母の老後についてはあまり実感がない。その点、妹たちはよく覚えている。おやじは68才で他界したが、後で、おやじと仲の良かった末弟の話から、前立腺ガンが肝臓や腎臓に転移したのではないかということを知った。

 この末弟も今は肝臓ガンと戦っている。彼の肝臓ガンはB型肝炎の予防注射に発した可能性もあり、補償の対象になるのではないかということで、ボクが法律事務所等と掛け合っていたが、こちらが入院してしまい、動きが取れなくなってしまった。

 母は90才まで生きたが、最後は骨折で寝たきりとなり、老衰のように亡くなった。ボケも出ていた。ボクが見舞いに行くと「政郎、よく来たね」というが、先の末弟が行くと「どちら様ですか」と尋ねることがあったという。末弟は「参ったよ」とよく言っていた。

 弟妹に改めて確認して分かったことは、我が家はガン系であるということだった。叔父叔母の殆どもガンにより命を失っている。心臓を患ったのはボクくらいしかいない。

 入院中も時折家族の病歴について聞かれたが、父や弟妹達がガンに侵され、生活に支障はないものの、闘病中であることを伝えながら、「ボクは心臓の後、ガンに見舞われるのではないか」とふっと心配になったりした。

誰にも死は平等にやってくるが、病気は平等にはやってこない。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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