聖徳太子 本当は何がすごいのか【第1回:聖徳太子は実在した】
いまなぜ「聖徳太子」なのか
7月3日、東北大学名誉教授・田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』を当社から発売します。 本書は、本年2月に文部科学省から示された学習指導要領改定案で、中学校の歴史教科書において、従来の「聖徳太子」の記述から「厩戸王(聖徳太子)」とする案が示されたことを契機に、この際、聖徳太子が実在したことを、きちんと論じておこうという趣旨で、執筆された本です。 かつては1万円札の肖像としても使われていた聖徳太子ですが、近年、その「不在説」が唱えられるようになるなど、「実在」が疑われるようになってきました。では十七条憲法や冠位十二階はいったい誰がつくったというのでしょうか。 早速、その「まえがきにかえて」をご紹介します。「聖徳太子でなければならない――まえがきにかえて」より
聖徳太子の名が厩戸王のあとのカッコでつけられることは誤りであること。 聖徳太子の名ではなく、まず厩戸王と書いて、のちにカッコの中に、その名を入れてもいいということですが、これは歴史的事実とは合致しません。是非、聖徳太子のままにして下さい。 『日本書紀』(720年)においては、皇太子と書かれていますが、慶雲3年(706年)においては、「上宮太子聖徳皇」と書かれ、一般にそれまで「聖徳」の名が使われていたことを証拠立てます。この文献は、『法起寺塔露盤銘』で、法隆寺に関係が深く、法隆寺の建立者としても、知られていたことを示しています。『日本書紀』の敏達天皇の条に「東宮聖徳に嫁す」と書かれ、推古天皇の娘と結婚したことが書かれていますが、これは、当時からその名が使われていたことを示唆しています。 また法隆寺金堂の薬師如来座像の光背銘に、「聖王」と呼ばれ、その造像記には、推古天皇15年(607年)とされているから、その年代から「聖王」で呼ばれていたことがわかります。 厩戸王を支持する学者たちが、間違っているのは、『日本書紀』に書かれていることは、皆、捏造だという戦後の歴史学者の、天皇・藤原権力の維持のために、『記・紀』が書かれたとする偏見に基づいており、また聖徳太子が建立した法隆寺が、670年以降建てられたとする再建説に立っているからです。 ところが、法隆寺五重塔の心柱が、594年に伐採されたという年輪年代法による新事実が発見され、そのことを無視しています。つまり、670年以後建てたものではない、ということです。670年とは、いうまでもなく『日本書紀』に、「この年、法隆寺が全焼した」と書かれているからです。その後も多く、670年以前の木材で造られていることが判明しています。 さらにいえば、この焼けた寺は、若草伽藍の方であって、そのことは、その場所における、焼け跡があることで証明されています。むろん、現在の法隆寺の下からは、焼け跡は発見されていません。そうであると現在の法隆寺こそ、聖徳太子の年代に造立されたものであり、金堂の中の「釈迦三像」の光背の銘文が生きてくるのです。そこには、この像が622年他界された「上宮法皇」=聖徳太子の像であることが書かれていることに符号するのです。釈迦像となるほど尊敬されていたのです。 太子の『三経義疏』もまた、聖徳太子自身が書かれたものであることは、最近の東野治之氏の研究までで実証されているし、それと関連する『十七条憲法』も、聖徳太子の編纂にかかるものであることも、明らかです。 簡単に述べましたが、これらを総合しても、聖徳太子の名は、当時から言われていた「上宮法皇」や「豊聡耳命」に合致するものであり、厩戸王などと書く必要は全くない、と言わなければなりません。 東北大学名誉教授・田中英道 東京大学名誉教授・伊藤 隆 文部科学省は、今春、小中学校の学習指導要領改訂案を示し、パブリック・コメントを求めました。改訂案は、中学校歴史教科書において、「聖徳太子」を「厩戸王(聖徳太子)」とするものでした。冒頭の文書は東京大学名誉教授・伊藤隆氏と連名で書いた意見書です。 「聖徳太子」ではなく、「厩戸王」とすべきだとする学者たちは、信仰の対象となった後の名称をつけるべきではない、といっています。つまり「聖徳太子」の名の初見は、天平勝宝3年(751年)、最古の漢詩集といわれる『懐風藻』であり、死後130年もたっているではないか、というのです。天皇の諡号だけは後でつけられるものだが、皇太子の名前は生前の名称でつけられるのがならわしである、というのです。 しかし、これはおかしいのです。『日本書紀』には、「聖徳」という名が2度出てくるように、生前から呼ばれていた可能性は高いですし、何よりも、歴史というものは必ず、後世による、その人物の評価を伴って残されるものだからです。 聖徳太子否定論者は、結局、太子の生涯の行い・業績を疑い、ほとんど確かなものはないといっていますが、それは一つ一つの事跡をいかに評価できるかにかかっているのです。 本書では、文献資料だけでなく、法隆寺などの物的資料や、当時の歴史を再吟味しながらこの問題を読み解きたいと思います。併せて、後世の評価に関する真実性も検討します。その上で、やはり「聖徳太子」の名がふさわしいということを述べていきたいと思います。(次号へ続く) (出典/田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
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『聖徳太子 本当は何がすごいのか』 やっぱり聖徳太子は実在した! なぜ、「厩戸王」としてはいけないのか。 決定的証拠で「不在説」を粉砕! ![]() |
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