聖徳太子 本当は何がすごいのか【第2回:民衆の神となった聖徳太子】
前号(【第1回:聖徳太子は実在した】)では、いまなぜ聖徳太子に注目するのか、ということを東北大学名誉教授・田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』(7月3日発売)の「まえがきにかえて」で紹介しました。
今号からは、聖徳太子にまつわるさまざまな話をコラムの形でご紹介します。
民衆の神となった聖徳太子
聖徳太子の伝説や太子信仰が広がるにしたがって、太子はさまざまな分野の祖神として崇められるようになりました。厩戸の近くで生まれたという話から馬を扱う人々の神にもなりましたし、法隆寺をつくったことから大工の神様になり、物部氏の戦いのときに四天王寺建立を誓って勝利したことから軍神として祭られるようにもなりました。 それだけではありません。日本では華道、茶道、柔道、剣道のように、すべてが「道」になります。その「道」にはそれぞれ「道の神」といわれる神様がいます。能ならば阿弥家、華道ならば池坊家のように、その職業を長く続けてきた家が神になる場合が多いのですが、聖徳太子はその上に国家観を持った神となって崇められました。 たとえば、芸能の世界でも聖徳太子を崇めています。『日本書紀』には、推古天皇20年(612年)に百済から来た楽人・味摩之(みまし)が伎楽儛を伝え、奈良の桜井で少年たちに伎楽を習わせたことが書かれています。聖徳太子がこの伎楽を奨励して仏教の祭礼に用いたといわれていることから、芸能の神として尊敬されるようになりました。 世阿弥の『花伝書』には、猿楽という芸能の起こりは聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に命じて天下が治まり、諸人の楽しみのために、幽玄向きの曲を66曲つくらせ、それを「申楽(さるがく)」と名づけたところからはじまると書かれています。雅楽の『蘇莫者(そまくしゃ)』という曲も、聖徳太子が河内の亀瀬に行ったとき、馬上で尺八を吹くと山の神が感極まって音色に合わせて舞ったという伝説がもとになっています。歌舞伎でも聖徳太子伝が「傾城片岡山(けいせいかたおかやま)」という題目になっていますし、読本でも太子物語がつくられるなど、太子に題材する数々の作品群が太子信仰の広がりをよく示しています。 また、兵法の騎馬戦法の一つには聖徳太子流というものがあります。室町時代に甲斐武田家に属した望月相模守定朝を開祖とする軍学兵法が聖徳太子の戦い方をもとにしているのです。奇襲を主とした騎馬戦法を取り込んで、それを太子流として伝えています。 医学の祖としての聖徳太子もいます。片岡山を遊行しているときに道端に倒れていた乞食に着物を与えたら着物だけが残されたという話から、太子が呪術で病を治したという伝説が生まれ、医学の祖として考えられるようになったのです。 このように聖徳太子の超人的な力がさまざまに伝わり、それがもとになって太子は民衆の神になっていくのです。聖徳太子が民衆の神となったことは、今はすっかり忘れられていますが、こうした一面を見直すことも重要なことだと思います。 (出典/田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
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『聖徳太子 本当は何がすごいのか』 やっぱり聖徳太子は実在した! なぜ、「厩戸王」としてはいけないのか。 決定的証拠で「不在説」を粉砕! ![]() |
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