聖徳太子 本当は何がすごいのか【第3回:自力本願から他力本願へ】
自力本願から他力本願へ
聖徳太子の「聖」の一字が共通している聖武天皇は、自らも太子の思想を体現して、太子が法隆寺や七大寺を建てられたように、東大寺を建て、大仏を造立しました。この頃から仏教に国家鎮護の役割を演じさせるという国家観を生まれるようになりました。 仏教は本来、個人宗教として入り、人々に仏陀の教えを学ばせることを目的としましたが、奈良時代になると、個人を超えて国家を鎮護するという役割を演じるようになるのです。それがはっきりと表れているのが、天平13年(741年)に聖武天皇の詔によって各地に建立された国分寺、国分尼寺です。これにより、仏教と国家がストレートに結びつくことになりました。 太子が評価した法華経には、寺院や仏像、経典を大事にするという考え方があります。それがさまざまな形で寺社建築や仏像の創造につながっていくのです。聖徳太子は仏という存在を「ホト」(=仏陀)と「ケ」(=仏像)に分けて、仏像を大事にすることを法隆寺で実行されました。具体的には止利仏師がそれを司ったわけですが、そういう太子の考えが、それ以後の天皇と寺の関係にしっかり出てきます。 この動きは平安時代まで続きました。鎌倉時代になると浄土宗が現われて、仏教は再び個人宗教的な側面が強く出てくるようになりました。法然や親鸞といった鎌倉仏教の祖の中にも聖徳太子に対する信仰は見えますが、鎮護国家的な思想は必ずしも受け継がれたわけではありません。 このことが仏教思想の衰退に通じていきました。仏教思想の衰退は、民衆の信仰が廃れることではなく、仏教そのものが全体の中での大きな役割を失っていくことによって起こったのです。そして、仏教の衰退は仏像の衰退にも結びついていきました。 それ以前は、聖徳太子が救世観音になり変わったり、釈迦三尊像の釈迦像になり変わったりしました。それは人間が自ら釈迦になりうるという考え方を人々に与えました。そういう自力本願として成り立っていったのが法相宗です。しかし、浄土教は他力本願ですから、どうしても聖徳太子の思想とは離れていきます。 たしかに、室町以後も、仏像のかわりに聖徳太子の三歳像、十六歳像、二十六歳像といった、それぞれの時代の聖徳太子像がつくられてはいます。それは江戸時代まで続きましたが、一方で仏像自体の表現力、あるいは仏像自体の実性というものが失われ、非常に装飾的になりました。これも仏教衰退の一つの現象と見ることができます。 (出典/田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
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『聖徳太子 本当は何がすごいのか』 やっぱり聖徳太子は実在した! なぜ、「厩戸王」としてはいけないのか。 決定的証拠で「不在説」を粉砕! ![]() |
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