日野原重明さんを追悼する[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第9話)]

日野原重明さん『「新老人」の星』

日野原重明さん『「新老人」の星』

日野原重明さんが亡くなった


 我が闘病記を推敲していたら、105才の現役医師・日野原重明さんが亡くなったというニュースを耳にした。日野原さんは東京築地の聖路加国際病院を長く率いて、日本の医学界に偉大な貢献をした。

 長寿を保ち、元気に立派に最期まで社会貢献をされた。先生によれば、75才以上を「新老人」というそうだが、ボクはまさに新老人。

 ボクにとっては憧憬の人だった。といってもボク自身、日野原さんや聖路加病院にも個人的なつながりがあるわけではない。

 ボクは昨年4月、慈恵医大病院で心臓バイパス手術を受けた。19年間、糖尿病科に予備軍の一人として通った病院だったが、入院してみると、居心地の良い病院だった。

慈恵の学祖に親近感


 ボクがそう感じたのは慈恵医大を作った高木兼寛学祖に親近感があったことによる。電通創業者の伝記を書くにあたって若いころの彼を救った高木学祖について調べたことがある。優れた臨床医だった。

 また、ボクが育った横須賀はいま海軍カレーを売り出し中だが、学祖はその海軍カレーの生みの親のような存在なのである。学祖は海軍軍医として、軍隊内で猖獗を極めた脚気を追放するために麦飯を導入し、大成功。結果的にそれがカレー食につながった。

 脚気死亡者は日清戦争では戦死者・戦傷死者の3倍に達し、近代日本にとって軍隊から脚気を撲滅することは焦眉の急だった。日露戦争で日本は勝利し、その後の発展の契機となるが、海軍から脚気を追放した学祖の業績は高く評価される。

語り部・阿部正和さん


 その学祖の医療理念が「病気を診ずして病人を診よ」ということである。入院してよくわかったことだが、この理念は現場の医師や看護師に浸透している。

 そこには学祖の考えを現代に伝える語り部がいた。企業史を眺めていると持続的に発展している企業には必ずこうした語り部がいる。病院も同様である。

 その一人が阿部正和(1918~2016)さんである。阿部さんは1964年から1984年まで内科教授を務められ、病院長や学長にも就く。糖尿病の権威である。

 その阿部さんに大きな影響を与えた一人が高木兼寛学祖である。慈恵では「病気を診ずして病人を診よ」という言葉は建学の精神とされる。阿部さんは言う。

「私たちの前にあるのは病気ではない。病に悩む社会的存在としての人間が前にいるのである」

 さらに言う。「医は単なるサイエンスではない。アートである」。アートとは、「医は人間を相手にした学問である」との立場で、病人に接する態度、医の心、医の道を指すという。阿部さんはこの精神を日野原重明さんから学んだという。

 その意味では日野原精神は慈恵でも生きている。阿部さんの著作を読むと信念の固さ、謙譲の心、人を包み込むやさしさが彷彿とされる。日野原さんの挙措・言動もそうだった。

 ボクは慈恵一辺倒だが、連れ合いは聖路加病院に親しみと安心感を覚えていた。こどもを出産したのが聖路加ならば、喘息持ちの子供に異変が生じたら、飛んでいくのも聖路加。健康増進のためのプールも聖路加だ。

 そういう心情を察して12年前、聖路加と指呼の間にある月島にマンションを買った。これほど連れ合いに喜ばれたことはない。しかし、子供が大きくなったので、3年前、そのマンションを売り払い、広めの部屋を求めて江東区のマンションに引っ越した。

病院に対する患者の思い


 部屋を売る時ありがたい経験をした。少し値切られるかなと思いつつ、強気に売値を提示したら埼玉県上尾に住んでいる方が、言い値で買ってくれたのである。

 その理由が振るっていた。「ベランダのすぐ下に聖路加病院が見える」。この買い主は心臓病を抱えており上尾から聖路加に通院していたという。患者の病院に対する思いの一端を見た。

 話が下世話になってしまったが、日野原さんの死はかえすがえすも残念である。しかし、日野原さんの生きざまをボクは忘れない。

その身は滅んでも、人の心に生きている人を偉人という。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。




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