世界文化遺産から読み解く世界史【第2回:アッシジのフランチェスコ修道会VS高野山】

メテオラの奇岩とアギア・トリアダ修道院(縮小)

メテオラの奇岩とアギア・トリアダ修道院

なぜ人間は、人里離れた山の上に聖地を築くのか

 山というものは高いがゆえに古代から信仰の対象となってきました。また、そこに住みつくことは人々の憧れでもありました。日本の聖地の多くが山の上にあるというのは、この人間本来の信仰に基づくものといえるでしょう。高野山や比叡山には多くの寺社がありますし、修験道の出羽三山にもそれぞれ山の上に寺社があります。宗教的な聖地が高い場所にあるというのは、日本ではよく見られる風景です。  ヨーロッパで山の上の修道院といえば、ギリシアのテッサリア平原にある世界遺産メテオラが有名です。メテオラは、「宙に浮く」という意味のメテオロスという言葉に由来しています。この地域には高さ20~500メートルの帯状の奇岩群があり、この奇岩の頂にいくつもの修道院が点在しています。  メテオラでは14世紀に戦乱を避けて修道士たちが集まり、共同生活をはじめました。戦乱を避けるという意味では、ヨーロッパの他の山岳都市に似ていますが、ここは縄梯子や滑車を搬送手段として使っていて、もしもそれが切れてしまえば地上からは簡単に行けないという峻厳な場所です。9世紀にはすでに修道士が移り住んでいたこともわかっていて、15世紀、16世紀のフレスコ画やイコン画などが残り、写本類なども伝えられ、現在もいくつかの修道院が活動しています。  メテオラと並んで有名なのはアトス山です。2033メートルの聖なる山で、ギリシアのハルキディキ半島の最先端にあります。ここは陸路がなく、海路でしか行けない場所です。7世紀から修道僧が住んでいるといわれていますが、ギリシア正教最大の聖地となっています。鬱蒼とした森に覆われた中にいまも20の修道院があって、約二千人の修道士が生活を送っています。  高く険しい山の上に修道士が住むというと、日本であれば自然信仰を考えますが、ヨーロッパの場合は、外敵の侵入を防ぎ、自分たちの静かな信仰生活を保つために選ばれています。日本の山岳宗教にも孤立を求めるという一面はあります。でも、敵から信仰を守るという意味合いはほとんどありません。日本では自然の中に没入するというところに価値を置きます。そこが西洋と日本との違いだろうと思います。  このように東西の対比をしてみると、日本の文化の特殊性が際立ちます。あるいは、どちらが特殊なのかと考えるきっかけになります。私は、本来の人間と自然風土の関係を考えるならば、日本のあり方のほうがより理想的だと感じます。日本の特殊性といわれるものが、逆にいうと、人間としてのあるべき姿だと思うのです。それぞれの生まれた場所に依拠した生き方こそが、本来の人間のあり方なのです。  大陸のように足で移動が可能な場所では、必ず暮らしやすい土地を求めて移動が起こります。しかし、自分の生まれた土地を捨てて他の地域に移動すれば、その地に住む人たちとの間に軋轢が生じます。それは必然的に戦争という形をとります。ところが日本のような島国で、しかも気候風土が比較的均質な場所では、土地の移動が必ずしも有利に働くわけではありません。そのため、旅をすることはあり得ても、自分の生まれ故郷を離れて新しい土地を求めるという積極的な意味での移動はなかったのです。  宗教的な施設や聖地が都市から離れた孤立した自然の中にあることは共通していても、ヨーロッパと日本ではその意味するところが違うわけです。  アッシジは丘の上に築かれた都市です。ここでも町の周りを防壁で囲って住民を守ったのです。イタリアの聖地となっていますが、それはイタリアの新しい宗教運動の教祖となった聖フランチェスコがここで生まれたからです。  商人の息子だったフランチェスコはある日熱病にかかり、やがて神の掲示を受けて回心し、街頭で宗教活動をはじめました。愛と平和、そして清貧を説き、自らそれを実践しました。その教えに帰依した11人の同志とともに設立したのがフランチェスコ会です。彼らは標高1300メートルのスバシオ山という山の斜面に修道院をつくりました。高い山の中腹につくられている修道院はいまも見ることができます。  その姿を見ると、私は高野山や比叡山につくられた僧院を思い起こします。特に高野山を拠点とした空海の宗教改革は、フランチェスコの修道院と同じように、仏教の新しい動きになりました。  空海は唐の時代の中国へ行って、長安の青龍寺で恵果和尚に出会って師事します。そこで密教を学び、真言宗を日本に持ち帰ります。それも空海の革新性なのですが、同時に私は空海に自然宗教的な色彩を強く感じます。密教の曼陀羅の宇宙観を人間の肉体と自然の両方に感じ取ろうとする彼の思想が、自然と人間との一体性を意図しているように思うのです。  アッシジにあるサン・フランチェスコ聖堂の壁画の一つに、フランチェスコが小鳥に説法する場面を描いたフレスコ画があります。このフランチェスコの自然に対する態度、あるいはフランチェスコ派の信仰に対する強い信念は他のカトリックの宗派とは違っていて、どこか東洋的な匂いがします。一方、空海の自然に対する働きかけにも、フランチェスコと似た感覚があるように思うのです。  こうした空海の動きは新しい仏教として高野山に根づき、やがて真言宗として発展していきます。この広がり方もフランチェスコの宗教運動とよく似ています。内容はもちろん違いますが、宗教運動者としてのフランチェスコと空海の動きがよく似ているのです。これはアッシジと高野山の動きが似ているといいかえてもいいでしょう。  私はかつて研究でアッシジに通っていた頃、高野山との姉妹都市の動きを進めたことがあります。残念ながら仏教とキリスト教の違いが理解されず実現しなかったのですが、私は宗教の共通性というものに、もっと目を向けるべきではないかと考えます。違いをクローズアップするだけでは対立しか生みません。しかし、これからは、常に抗争を繰り返している現代の宗教のあり方を克服する方法を考えていくべきだと思うのです。その点で、フランチェスコと空海、アッシジと高野山を比べることには大きな意味があると思います。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』(最新刊)ほか多数。
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