世界文化遺産から読み解く世界史【第3回:アテネのアクロポリスVS法隆寺】

パルテノン神殿(縮小)

パルテノン神殿

ギリシアの古典と日本の古典

 アテネのアクロポリスは、ギリシアの首都アテネの町を見下ろす丘に建っています。アクロポリスとは「高い丘の上の都市」という意味で、丘全体がアテネの守護神のアテナを祭った一大聖域となっています。東西約300メートル、南北150メートルのこの聖域に西の門から入ると、まず勝利の女神ニケを祭るアテナ・ニケ神殿があります。そして中心部に目を転じると有名なパルテノン神殿が望めます。

 パルテノン神殿はヨーロッパ建築の最高傑作といっていいものです。八本の柱が前面に立ち、黄金分割で見事にはかられた建築美を誇っています。この美しさを単なる建築上の測定によって合理的につくられたとするのは近代の見方ですが、私はそうではないと考えます。ここでは明らかに美というものが目的化されています。破風に彫られた彫刻を見てもわかりますが、美とは何かという明確な概念に基づいて、非常に意図的につくられています。

 それをつくったのはイクティノスとカリクユナスという建築家ですが、彫刻群はフェイディアスでした。この天才的な芸術家たちがギリシア文化を、あるいはギリシアの美をつくったのです。

 また、アクロポリスの丘はギリシア文化の一つの象徴であると同時に、民主主義発祥の地という見方をされます。アテネでは、貴族政治を経て、富裕市民が政治を行う政権交代が起こりました。しかし、紀元前6世紀後半に無産市民から支持されたペイシストラトスが軍事クーデターを起こして政権につきました。ペイシストラトスはアッティカの銀山を開発し貨幣鋳造が本格化したため、アテネは財力を増し、それを基にアクロポリスをはじめとするアテネ市内の整備と美化に着手したのです。

 このペイシストラトスは結局のところ僣主という存在で終わり、アテネに民主主義をもたらすまでには至りませんでしたが、新たに指導者となった執政官クレイステネスが陶片追放という、僣主になりそうな危険人物を追放できる制度をつくり、これがアテネの民主制の基礎になったといわれます。そして、次の指導者ペリクレスの時代になるとアテネは非常に繁栄するようになりました。

 このアテネの民主主義を支えていたのが、アクロポリスでありパルテノン神殿でした。民主主義といえばそれだけで社会が運営されると思い込みがちですが、そう単純ではありません。アテネの場合、パルテノン神殿の存在が人々の共通の信仰になり、そこではじめて丘の麓のアゴラという広場で議論をするようになるのです。一つの城壁に囲まれた都市国家の民主主義も、結局、神殿がアクロポリスの丘に存在することによって支えられていたのです。宗教的なアクロポリスの存在を見なくては、ギリシアの文化も政治も理解できないのです。

 このアクロポリスの役割は法隆寺のあり方とよく似ていると感じます。時代的には法隆寺のほうがあとで、もちろん仏教という全く違う宗教の建物ではありますが、法隆寺の五重塔も黄金分割になっていて、そこに美を求めていることがわかります。また、法隆寺の美しさは建築様式の違う金堂と五重塔を並列させてつくったところに由来するともいえるのですが、その全体のプロポーションはアクロポリスと同じように調和がとれています。

 先ほど私は、フェイディアスという一人の天才がパルテノン彫刻をつくり、ギリシアの文化をつくったといいましたが、法隆寺にも一人の天才の存在がありました。それは止利仏師という一人の仏師であったと私は考えています。この天才が飛鳥・奈良の文化をつくったのです。その彫刻と建築の調和でも十分推測できます。

 そして、その裏には聖徳太子という政治・思想の天才がいました。法隆寺に見られる調和のとれた美しさを聖徳太子は政治に取り入れました。つまり、政治とは権力と人民との調和によって表されると考えたのです。ご存じのように、聖徳太子は「和を以て尊しとす」からはじまる十七条の憲法によって民主主義の基本をつくりました。私はいま、止利仏師によって飛鳥・奈良の文化がつくられたといいましたが、裏返していえば、聖徳太子という存在があったからこそ飛鳥時代に法隆寺がつくられたと考えていいように思います。

 いずれにしても、アクロポリスが信仰の中心となってアテネの民主主義を支える重要なバックになったように、法隆寺は仏教の中心地として日本の「和」の民主主義を支える一つの重要なモニュメントになりました。

 また、神道という共同宗教の上に仏教という個人を重視する宗教を取り入れたことによって、法隆寺以降、日本の文化は普遍化していきました。それ以前の日本の文化は、埴輪にしても土偶にしても、同じ表情で個性がありませんでした。ある意味で日本人にしかわからない文化でした。しかし、そこに仏教文化が入ることによって、はじめて人間像という表現が生まれたのです。仏像と埴輪を比べれば一目瞭然です。仏像には明らかに個性があります。菩薩像にしても四天王像にしても、すべて表情が違います。それが普遍的な芸術を生むきっかけになったのです。

 法隆寺以降、つまり7世紀以降に日本の文化が西洋と並ぶようになったのはそういう理由があります。個人信仰が日本に入り込むことによって、個人の像が生まれ、それが人間像として普遍化されたのです。

 同じことがギリシアでも起こりました。ギリシア文化はもともとアルカイズム(懐古主義)といって、ほとんど同じ形を像としてつくっていました。そんなギリシアの彫刻がアテネのアクロポリス、パルテノン神殿をきっかけに古典化していきます。そこから古典主義的な非常に優れた彫刻、個人主義に基づく芸術が生まれるのです。個性豊かなギリシア神話の神像もアクロポリスから誕生したわけです。

 そういうわけですから、ギリシアの古典と日本の古典の基本は法隆寺とアクロポリスに表現されているといっていいでしょう。それがそれ以後の古典の基本になっているのです。これがアテネのアクロポリスと法隆寺を比べる一つの根拠となっています。

 新しい歴史観というものを考える上で、こうした見方は決して無理なものではないと私は考えています。

(出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社

【田中英道(たなか・ひでみち)】
東北大学名誉教授。日本国史学会代表。
著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』(最新刊)ほか多数。

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