独裁を目ざそうとする習近平の野望②

毛沢東

毛沢東

2012年に総書記就任

 中国で独裁体制を着々と進める中国共産党総書記習近平。思い返せば、彼が2012年11月、胡錦濤から国家主席と共産党総書記を引き継いだとき、現在の皇帝のような存在になることをだれが予想したであろうか。  そんな感想を抱くほど、習近平が自分の実力でこの地位に就いたわけではないことは、2012年のトップへの就任時においても衆目の一致するところだったからだ。  それまで習近平は国家副主席だったわけだが、彼はあくまで胡錦濤と江沢民の派閥争いの末に、一番納まりがよいという理由で総書記の地位に就いたという印象だった(ただし、総書記へのレールは早い時期から決まってはいたのだが)。  それゆえ、世界からは習近平が調整型のリーダーとしてしかみなされなかった。それぐらい存在感が薄かった。物事は合議制で決められている様子があり、習が自ら独自色を出すようなことはほとんどなかったのだ。  しかしながら、対日本においては、2009年12月に慣例を破った形で天皇陛下との会見を強く要求し、それを日本政府が情けなく受け入れたことで、日本国民はこの時期総書記にはいい印象を抱いていなかった。ここでは強引さが目についてはいた。  そんな習近平が、2017年に行われた中国での党大会で、鄧小平さえもできなかった「党の核心」と位置づけられて、彼の考えは「習近平思想」と表現されることになった。つまり、習近平は毛沢東以来の終身指導者の地位を手に入れたということなのだ。

毛沢東で独裁は終わったかと思われたが

 中国の歴代の指導者のなかには独裁者も多くいた。秦の始皇帝から始まり、皇帝として権勢をふるって王朝を築き、それが新たな人間によって打倒されていくという繰り返しである。  近代以降、孫文や蒋介石などの指導者がいたが、やはり権力闘争によって中国を統一して建国に導いた共産党のリーダーだった毛沢東こそ、中国の伝統的な独裁者といってよい。彼が行った「大躍進」「文化大革命」など、数々の政策とその大失敗は、現在では何千万人もの死者を生んだとも言われている。  毛沢東以降で力をもった鄧小平は、トップリーダーとして改革開放を主導したが、自分より後の世代は集団指導体制に移行するように考えていたようだ。彼こそは、中国における独裁の怖さを身に染みて知っていたからであろう。  そんな、鄧小平も1989年の天安門事件において、学生デモ隊への武力鎮圧を指示したとも言われており、「武力使用で死者が出たとしても国内の混乱を避ける」という独裁的思考だったことがよくわかる。  鄧小平以降の中国共産党のトップは、一見集団指導制へと舵を切ったかに見えた。というのも13億人という莫大な人口を統治する難しさ、それに加えて、共産党一党支配と資本主義の矛盾が広がることを押さえる必要もあるからだ。しかし、したたかだったのは、習近平であった。 参考文献:『習近平の死角--独裁皇帝は間違いなく中国を自滅させる』宮崎正弘著/育鵬社刊
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