ばくち打ち
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(29)
「ギャッ」
「キャッ」
「グアッ」
優子を含み、誰がどの音を発したかは不明だが、指揮者がタクトを振り下ろした瞬間のごとく、同時に多発の絶叫が迸(ほとばし)った。
ディーラーの掌の下に、左右3点、中央1点のダイヤの7のカードが姿を見せていた。
1プラス7で、バンカー側は「ナチュラル・エイト」。
打ち手たち全員から、空気が抜けていく。
背後から見ている良平には、実際に3人の躰が萎(しぼん)でいくのがわかった。
最終クーは、なんとタイである。
したがって、ベットされた(この場合は、シークレット・カードに記入された)チップ量は、そのまま生き残った。
「こんなん、ありかっ」
と、顔を真っ赤にした百田の怒声。
優子はテーブルに顔を伏せたままだったが、四番ボックスの山段は腕を高々と掲げた。
無音の勝利ガッツ・ポーズで、固まっている。
1億2000万円分の歓喜に、山段は声を失っていた。
200万HKDのチップを卓上に残したまま、百田が立ち上がると椅子を蹴った。
トーナメント・チップだから、勝負が決まったら価値はない。
「賞金は現金がよろしいですか。小切手でもローリング・チップでもご用意できますが」
良平は、ガッツ・ポーズのまま凍ってしまった山段の背中に、声をかけた。
12人参加の大会である。表彰式などやっても、出席するのは“In the Money”の優勝者と準優勝者だけだ。
他の者たちは、きっとバカラ卓でやけくその「残業」に励んでいることだろう。それが良平にはわかっていた。
だから表彰式などやらない。
「ローリング・チップにしてくれ」
我に返った山段が、応える。
「部屋に戻って、たばこ、喫ってくる」
と、山段が言って席を立った。
このフロアにも密封された喫煙室があるのだが、山段は一旦自室に戻り、気を鎮めるつもりなのか。
ほんの2年前までは、ジャンケット・フロアはプライヴェートの領域として、どこでも喫煙が許されていた。
思えばマカオでも、喫煙制限が厳しくなったものである。
「ドウチェ」
良平はディーラーの少女をねぎらい、大会テーブルを閉めるよう命じた。
これには、トーナメント・チップの回収および確認、使用したカードの検証(この部分は別室でおこなう)等、結構手間がかかるのである。
優子は、まだ卓に顔を伏せたままだ。
髪に隠された耳が、真っ赤に染まっている。
「残念だったねと言うか、400万HKD(6000万円)を勝利したのだから、おめでとうと言うべきか。もっとも優子さんの取り分は、約束したように、200万HKDだけだけれど」
激しい呼吸で波を打つ優子の背中に、良平は優しく声をかけた。
「バカでした」
俯いたままグリーンの羅紗(ラシャ)に向かい、優子がつぶやいた。
「あの50万ドルの中途半端なベットの件だね。わたしもあれの意味がわからなかった」
「もう、頭が混乱してしまい、なにをやっているかわからなくなって」
優子が勝負卓から、顔を挙げた。
頬に涙の跡がある。(つづく)
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(28)
サンピンの8が出てきたら、1プラス8の9でプレイヤー側は負けるのだから、本当は「なんでもええ」わけがなかろう。
8のカードが現れる確率は13分の1。
絶対に起こらない、とは決して言えないのだが、まず起こるまい、と信じる。
でも確率がゼロとならない限り、「まず起こるまい」という事象がよく起こるのが、ゲーム賭博であった。
このクーを失ってもすでに準優勝賞金400万HKD(6000万円)を確保した山段の強がりだったのか、それとも心中に湧きおこった「惧(おそ)れ」の裏返しだったのか。
ディーラーによってゆっくりと斜め脇にずらされていくカードの右上隅に、ダイヤのスートゥが姿を現した。
脚がある。
百田と山段の顔が、赤黒く膨れ上がっていく。
爆発寸前まで、空気が注入された。
ちょっと針を刺したら、破裂してしまうのだろう。
「テンガァッ」
と百田の気合い。
二段目にも影が現れれば、それはセイピン(9か10)のカードであり、そこで山段の優勝、百田の準優勝が決定する。
ところが、二段目は「ヌケ」ていた。
「チョイヤアァ」
と百田。
山段のそれが不発だったので、今度は百田の気合いだった。
中央も「ヌケ」ていれば、それはリャンピン(4か5)のカードで、同じく優子は即死。
「テンガ(点がつけ)」の次が、「チョイヤ(点が飛べ)」なのだから、打ち手たちも忙しい。
そりゃそうだ。賞金総額1200万HKD(1億8000万円)が懸かった勝負なのだから。
カードの横中央に、影が現れた。
つまりサンピン(6か7か8)である。
「アイヤァ」
と、膨らみきった風船から、すこしだけ空気が漏れた。
勝ち・負け・タイ、なんでもありの展開だ。
ディーラーが、1ミリの数分の1ずつ、重ねたカードをずらしていく。
じらすように、責めるように。
「ついてっ!」
と優子の悲鳴にも似た叫び。
両手で覆ってはいるけれど、眼はしっかりと見開き、指の間からすこしずつ起こされていくカードを凝視しているのであろう。
勝負を決するカードのスートゥはダイヤなのだから、「花が咲く(=向く)」方向は無関係となる。
これがサンピンでもハート・スペード・クローバーのスートゥであれば、「花が咲かない」方に影が現れれば、8と確定するのだが、ダイヤでは「花が咲く」「花が咲かない」両方向を確認しなければ、6か7か8のカードかわからない。
決勝卓を包む緊張は、極限に達した。
その緊張に耐えられなくなったのか、
「もういい、一気に行け」
と山段が日本語でディーラーに命じた。
ディーラーの少女が、眼で優子と百田に問う。
「行け」
と百田。
かすかに頷く優子。
やはり優子は指の間から、展開を凝視していたのである。
「では」
とディーラー。
鬼が出るか、蛇が出るか。はたまた天国の真珠門(パーリー・ゲイト)が開かれるのか?
バンカー側のカードを押さえていたディーラーの細い指先が、3センチほど真横に動いた。(つづく)
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(27)
「そうですよね。緊張しすぎて、そこまで頭が回りませんでした」
と優子が、唇を歪めて自嘲する。
ベットの時は赤黒く膨れていた顔だが、この時点では蒼白のそれに戻っていた。
このとき、決勝テーブルの背後で展開を見守っていた良平は、確信する。
バンカー・サイドがめくられて、優勝者は優子になるであろう、と。
ディーラーの少女の細長い指が、シュー・ボックスに届いた。
「一本指でやれ」
と百田が命じる。
一本指なら、確かに「二抜き」「三抜き」は不可能だ。
ここにも、大手ハウスでの「シゴト」を疑う打ち手がいた。
「シゴト」が入れられてしまうと恐れるなら、そんなハウスに行くなよ、と良平は考える。
しかし、日本には「シゴト」の存在を信じる連中が多かった。
それだけ、負けているということなのであろう。
もっとも、負けている連中がほとんどだから、ジャンケットのような商売が、稼業として成り立っているのだが。
「OK, Sir」
と、百田の命令に応じ、ディーラーの少女が一本指で、シュー・ボックスからカードを抜き出す。
日本語で言っても通じてしまった。
ここいらへんが、世界共通で、賭場(どば)のよいところだ。
一本指でシュー・ボックスから抜かれたカードが二枚ずつ、所定の場所に揃えられた。
三人の打ち手たちの呼吸が止まる。
背後から眺めているだけで、良平にはそれがわかった。
肌が粟立(あわだ)つ、血が滾(たぎ)る。
「ハン」
と言ってから、ディーラーの少女が、プレイヤー側の二枚のカードをくるりとひっくり返した。
「おおっ!」
と百田と山段が同時多発で叫んだ。
絵札にサンピン最良の8がひっつき、「ナチュラル・エイト」である。
優子ががっくりと顔を伏せた。
まだあきらめちゃいけない、と良平は思う。
あきらめたときに、希望は絶望に転ずるのだから。
8は、確かに強い。
しかし9というお兄さんを、残していた。
「チョン」
とディーラーの少女が小声で言った。
言葉を交わしたことはなかろうが、同じ職場で顔を合わせる優子に、同情しているのか。しかし……。
勝負は、下駄を履くまでわからないのである。
このケースでは、下駄ではなくて、二枚のカードが開かれるまで、不明だ。
ディーラーの少女がひっくり返したカードは、二枚が重なったままだった。
少女なりに、場を盛り上げようとしているのであろう。
上のカードにハートのエースが載っていた。
すると優子に必要なのは、サンピンのカードとなる。
エースにサンピンのいわゆる「最強太郎」の組み合わせで、下のカードが「ヌケヌケ」の6でバンカー側の負け、「一点ヌケ」の7でタイ、「ツキツキ」の8でバンカー側の勝利だった。
重なったカードをディーラーがわずかずつ斜め脇にずらしていく。
打ち手の代わりに、ディーラーがカードを絞っている感じだ。
優子が下げていた顔を挙げると、
「お願い、スリー・サイド」
と言ってから、両手で自らの顔を覆った。
「なんでも、ええぞおおう」
と四番ボックスの山段が吠える。 (つづく)
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(26)
百田と山段の二人も、もちろんシークレット・ベットの権利を行使する。 卓上に三枚のシークレット・カードが出揃った。 昔懐かしい日本のバッタまき(=アトサキ)の場なら、ここで中盆が、 ――盆中、揃いました。よろしいで […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(25)
――Go for Broke. 当たって砕けろ、というやつだった。 百田が優勝を目指すとすれば、この局面では当たり前ならそうする。 ディーラーがセカンド・ラスト第二十九のクーを開いてみれば、プレイヤー側には、絵札 […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(24)
シュー・ボックスから一枚ずつ引き抜かれるカードの、しゅっしゅっというかすかな音が、決勝卓に残る三人の心を、きっと切り刻んでいることだろう。 いったん所定の位置に並べてから、ディーラーの少女の細長い指が、カードをひっく […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(23)
プレイヤー側の最初の二枚のカードは、絵札にサンピンの6。 プレイヤー側の持ち点6には、いかなる場合でも三枚目のカードの権利はない。すなわち、プレイヤー側の持ち点は、6で確定した。 一方バンカー側のそれは、リャンコ・ […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(22)
第三クーもプレイヤー側の勝利で、3目(もく)ヅラまで伸びた。 バンカー・ベットだった優子は1万ドルを失ったのだが、むしろそれを喜んでいるかのようだ。 そう、博奕(ばくち)は勝つことだけを追っていてはいけない。 負 […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(21)
まだ第二クーにもかかわらず、優子は決めに行ったのだ。 「またかよ」 三番ボックスの才川が、吐き捨てるように言った。 これにも優子は、薄い作り笑いで応える。 一番ボックスにベットの順が戻り、百田がすこし考えていた。 […]
第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(20)
たとえプレイヤー側にベットしている者がこの手を負けようとも、失うのは1万HKDのみ。その代償に、優子が飛んで、敵は一人減る。 だから、バンカー。どうしても、バンカー。 同席者たちは、プレイヤー側に賭けていようとも、 […]