更新日:2026年08月19日 19:45
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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第九章・第四話 若林信二編】「卒業」/鳥トマト

漫画編集者として働く若林信二。担当コミック『わたしの理解あるカレ君』がアニメ化され、ライツ事業部・堅山賢一主導のもと好調だが、作者・ヒルビリー真中との関係は悪化の一途を辿る。若林はカウンセラー・山本唯花と結婚。会議の場で「これまでの自分」を語りだす。 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第九章(若林信二編)・第四話「卒業」

 会議室は水を打ったように静かだった。さっきまで資料を見ていた堅山も、僕の方を見て耳を傾けている。 「安心感というか、虚脱って感じでした。僕が今まで、残業や徹夜までしていいものを作ろうと格闘していた時間って何だったんだろうって。編集長からも『無理しないよ~に!』って連絡きてて。『お前はもういらない』って言われたのとほぼ一緒ですよね。激しく罵られた方がまだマシですよ。間違い探しおじさんには部署の誰も期待していないってことが逆にはっきりしてしまいました。  発熱してる時にね、妻がね、かいがいしくお世話してくれたんです。僕がベッドから立ち上がるのを見たら、妻が安心して、泣いてるんですよ。涙がすごくきれいでした。こんなに涙がきれいな人がいるのかって思いました。もし今の妻がいなかったら、寝ている間に脱水なんかで死んでいたかもしれないんですよ。今まで、こんな人がいただろうかって思いました。あ、僕は一回離婚してるんですけれども、こんなに他人のことを思って世話してくれる女性がこの世にいることに感動して、僕まで泣いてしまって。  また、その持ってきてくれたお粥がおいしいんですよね。出汁のいい香りがして。口に入れると、じんわりと温かくって、口の中に唾液がじゅうと湧いてくるのがわかるんです。もし元気になったあとに、妻がインフルになってしまったらどうしよう。妻を助けてあげたい。でも、僕にはこんなにおいしいお粥は作れないって、痛感しました。  空っぽになった土鍋を見ながら気がついたんです。今まで人に何かしてあげようとか、人生で一度でも考えたことがあっただろうかって。僕の人生全部が、新人漫画家の描くクソ面白くもない独りよがりなエッセイみたいな感じだったんじゃないかって。自分の母は夕食にカップラーメンしか用意してくれなくて、ひどい母親だと思ってたんですよ。でも一度でも僕が逆に母に何か料理を作ってあげようとか、思ったことがあっただろうかって反省したんです。だから今、妻にも、真中先生にも、何もお返しできない情けない状態になってしまったんじゃないのかって。  僕が彼女とか、真中先生とかにしてあげられることってなんだろうって、その時、初めて真剣に考えたんです。彼女に対しては、結婚して、お金を稼いで、家族が安心して暮らしていけるだけのお金を渡すくらいしか、僕にできることってないのでは?って思ったんです。そして真中先生や後輩たちにとっては、もう、僕みたいな老害が編集部からいなくなることが一番いいことなんじゃないかって、気がついてしまったんです。
漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato