ライフ

『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第十章・第三話 堅山賢一編】「ありがとう、さようなら」/鳥トマト

出版社・有幻社で働く堅山賢一はプロデューサーとして、漫画編集者・若林の担当コミック『私の理解あるカレ君』のアニメ化を手がけた。同作のアニメ版は大きな話題になり、周りからも高く評価されるが、その一方で、妻との関係は冷え切り、家庭は崩壊寸前に追いやられ…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第十章(堅山賢一編)・第三話「ありがとう、さようなら」

 会社の裏にある公園の桜はちょっと葉が出始めているものの、まだ満開と言っていいくらい咲いていた。風が吹くと花びらがさっと散っていく。 「先輩、早く来ないと始まっちゃいますよ? 今日は先輩が主役みたいなもんなんですから」  今日はライツ事業部の歓送迎会。今回、歓迎するのはスタッフ三人、辞めるのはスタッフが二人と社員一人、つまり俺だ。スタッフの入れ替わりはしょっちゅうなので歓送迎会など滅多に開かれないが、さすがに社員が辞めるのは珍しい。山野たち若手の希望で、歓送迎会が部署全体で行われることになったのだ。 「早く隣座りましょうよ~」  先にレストランに入った山野が自分の隣の椅子をバンバン手で叩いている。最近の彼女は俺と親しいことを周囲に隠さなくなった。もうすぐ俺が離婚するからだろう。    歓送迎会は和やかに進んでいった。昼はランチのマダムで賑わう小規模なイタリアンレストランは今日、三十人弱いるこの部署で貸し切り営業になっていた。飲み会用の大皿のカルパッチョやサラダを山野がテキパキと取り分けている。 「そういえば部長は?」 「何か他の取引先様が来る会議と被ったから来れないらしいです。気まずかったんじゃないですか? 堅山さん辞めちゃうのが」  実際、部長は就任してから二年以上経っても部長らしい実務をほとんどしていなかった。彼の仕事は重要でない取引先との会食の席に「部長」というお人形として座っているだけになりつつある。 「堅山さんがいなくなったら部長はどうやって仕事するつもりなんですかね?」  山野が俺にサラダを手渡しながら言う。    半年前、退職しますと報告しに行ったとき、部長は形だけ引き留めてくれた。ただ彼は俺が何の仕事をしているのか、やはり最後まできちんと把握できていない様子だった。退職の意思が固いとわかると、部長は諦めたような顔になり、 「そうか、君はどこにでも行けて羨ましいよ」  と、一言だけ言った。部長は五十五歳。白い蛍光灯に照らされた部長の顔は、目の下のシワが深く、頬は垂れ下がり、鼻は大きく膨らんで、口の端はなぜか右側の方が少し上に歪んでいた。老いた人間なんだ、と思った。編集部から全く仕事内容のわからないライツ事業部に異動になって、お飾りの部長をさせられていることは、この男にとっても幸せではないのだということが、その疲れきった顔からはっきりとわかった。俺は自分の「転職」という選択が正しかったことを確信した。こんな老人には、なりたくない。 「では、ここで新しくいらっしゃった皆さんと、退職される皆さんからそれぞれご挨拶いただこうと思います」  幹事が立ち上がって、新しく入ったスタッフと、退職するスタッフに挨拶を促した。それぞれが立ち上がり、自分の名前と、これから始まる業務への期待や、終わっていくこれまでの業務への感謝を述べていた。周りはガヤガヤと酒を飲みながら適当に拍手をした。辞めるスタッフはどちらもまだ一年も勤務していなかったし、新しいスタッフもどうせ、それくらいで辞めていくのだ。顔と名前を覚えるのは実際に自分と仕事をする段階になってからでいい、というのがこの部署の共通認識だ。 「では、最後に堅山さんから一言、お願いします」  マイクが回ってきて、俺に手渡される。立ち上がって周りを見回した。ここにいる人の半分は業務委託スタッフや派遣などの非正規雇用、半分が社員。俺と同じくらいの年の社員はほとんど全員、中途採用だ。 「皆さんには大変長らくお世話になりました。僕はこの会社が転職して二社目ですが、気がつけばこの会社にも七年近くおりまして、このような挨拶をさせていただくのも大変感慨深いです」  スタッフたちの挨拶の際にはガヤガヤしていた社員たちが打って変わって静かになって、俺を見ている。 「たった七年の間にさまざまな作品のプロデュースを担当させていただいて、また、『わたカレ』のような大ヒット作品にも携わらせていただいたことは大変光栄でした。以前の自分はワークライフバランスも比較的しっかりしていて、そんなに仕事にのめり込むつもりはなかったのですが、気がついたらどっぷりでした。ここ二年ほど部長代理も務めさせていただきましたが、非常にやりがいがあって楽しい時間でした。睡眠時間もあまり取れず、すっかり家庭も崩壊しまして、失ったものも多かったですが」  ふと右側を見ると、近くで山野が俺の顔をじっと見ている。何か明るいことを言わなくてはならない気がした。失ったものばかりではないはずだ。仕事を通じて手に入れたものだってあったはずだ。 「今日は部長がいないのではっきり言っちゃいますが、そもそも僕が転職を決めたのは、部署全体の業務再編案を部長に打診されたからです。『わたカレ』なんかの自分が育てた作品の担当から外れて、新規案件に集中してほしいと。仕事量を調整したいなら、今のプロジェクトは全部外れてくれと部長に言われまして、さすがにそれはないと思って、どうすれば今の仕事を自分のペースで続けられるか、考えた末の転職です。これから外資系の映像制作会社のコンテンツディレクターに就任することになっているのですが、みなさんご存じの通り、その会社は弊社のあらゆるアニメ製作委員会に出資してます。もちろん『わたカレ』にも。ですので、会社が変わるだけで、自分は来月からもほぼ同じ委員会に出席しますし、ここにいる皆さんとはほとんど引き続き一緒に働かせてもらうことになると思います。きっとまたいろんな会議ですとか、コンベンションでお会いするでしょう。優しくしてやってください」  社員、スタッフともにこちらをほっとしたような顔で見ている。よくない考えが頭をもたげてきた。新しい会社では、ミッションとして制作チームを作ってほしいと言われている。スタッフの引き抜きは退職してからやろうと思っていたが、今日部長がいないなら、ここで何を言ってもいいのでは? 「皆さんもそうだと思いますが、僕はこの仕事が好きなんです。真中先生とか山野みたいなやる気ある将来有望な人と一緒に働いて、いいアニメを作って、自分が仲間と一緒に成果を得られることに喜びを感じて働いてるんですよ。それなのに、この会社では一つの企画がうまくいったら担当を外されてハイ、次の案件。次の仕事がうまくいったら、また別の案件。これじゃ本当に永遠に最前線の戦地に送り続けられる傭兵ですよ。自分が勝ち取った仕事なのに、そこできちんと評価されたり、報酬をもらえたりすることってないんです。皆さんもそんな扱いは嫌でしょう」  社員たちが皆、神妙な顔つきになった。思い当たる節があるのだろう。 「新しい会社に世界規模の事業計画を見せてもらって、思いましたよ。欧米やアジアを視野に入れた外資系企業から見たら日本市場なんか本当に小さくて、プロパーだとか、中途だとか、そんなことを気にして働いてる場合ではないんです。日本文化全体のプレゼンス向上のため一人ひとりが限界まで頑張っていかないと、日本そのもののエンタメ事業が丸ごと沈没するようなフェーズに来てるんです。完全に実力主義で、働けば働くほど収入が上がっていくような環境でないと、人は頑張れないのではないかと思います。正直僕は、この頑張っても報われない環境で頑張りすぎました。頑張らない人の分まで頑張りすぎた」  誰かがカトラリーを床に落として、レストラン中にカランという音が響き渡った。誰も食事に手をつけていなかった。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 堅山賢一…40歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

山野美羽…29歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。上司である堅山と体の関係を持ってしまい……
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
SPA!編集部が「人生後半を賢く楽しく生きる」をテーマに厳選した記事をメルマガ会員限定で毎週金曜日にメールでお届けします。仕事・お金・性・人間関係…人生を豊かにする秘訣が見つかります。無料・10秒で完了です。
無料でメルマガ登録する⇒⇒
※登録後、メール認証が必要です。受信した認証メールをクリックして、登録を完了させてください。
※認証メールが届かない場合、迷惑メールに入っているか、メールアドレスが間違っている可能性があります。再度ご登録ください。
【関連キーワードから記事を探す】