【棚橋弘至 vol.2】若手時代に来た「ハッスル」からの誘い。そして契約更改の日
プロレスラーと社長の「二刀流」を宣言して、5か月が過ぎました。ケガでの欠場から復帰して、約2週間のシリーズに合流して試合もしてきました。正直、まだ仕事と試合とトレーニングとの生活のペースが掴めていません。
が、昔から「目の前のことを全力でやる」という機能が内蔵されているので、どうにか今に至っています。
新日本プロレスの歴史の中で「社長レスラー」は、団体の旗揚げから、アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰爾(敬称略)と続きましたが、藤波さん以降、僕は約20年ぶりの「社長レスラー」。もちろん、やる気に満ち満ちていますが、力不足、経験不足はいかんともし難い部分ですよね。
そんなとき頼りにしているのが、現在の新日本プロレスの会長・菅林直樹さんです。菅林さんは’07年から’13年まで社長をされていました。社長になった年は、新日本プロレスがビジネス的にも最も苦しい時期。’12年にブシロードにバトンタッチするまでの、激動の新日本プロレスを舵取りしてきた方なのです。その特筆すべき点は絶対的「信頼感」。会長の体の半分は信頼感でできているんじゃなかろうか。
そんな菅林会長と僕の絆は、’00年代前半に遡ります。その頃は総合格闘技の台頭や、新日本プロレス自体の内容の不振も続き、低迷期といわれる時期でした。この頃、プロレス界で最も勢いがあったのが「ハッスル」という団体。エンタメに振り切った試合が好評で、資金力で多くの選手を集め、勢いもありました。
今だから話せますが、僕にもハッスルから声がかかっていました。当時はヤングライオンと呼ばれる“若手にちょっと毛が生えたくらい”。そこに4倍の年俸でオファーが来たのです。ギャアアー!
とはいえ、その頃はIWGPヘビー級チャンピオンにもなっていない。志半ばで“うまい話”には飛びつけません。
そして契約更改の日。事務所を訪れた僕でしたが、うっかり実印を忘れてしまった。これでは契約が成立しない。「すみません。次回、持ってきます」と謝る僕。その場にいた、当時、副社長だった菅林さんは「じゃあ、タナくんの家まで一緒に行くよ」と、すぐに2人でタクシーに乗車。自宅まで来ていただいて契約成立と相成ったわけです。どうやらハッスルからの引き抜きの話が、どこからか新日本にも伝わっていたようです。今思い返してみても、異例の契約更改でした。
そして今、自分が社長になり、そういった菅林会長の行動を改めて思い返し、“若手に対してもなおざりにしない”、人との関わり方を改めて肝に銘じたいと思ってます。
今、事務所の隣の席に座っていらっしゃる菅林会長。ああ、癒やされる。きっと、会長からは「マイナスイオン」も出ていますね。

棚橋弘至 ©新日本プロレス
“低迷期”を支えた男。菅林直樹会長
今週のオレ社訓 ~This Week’s LESSON~
経営者は、徹底的に若手の、セコンドたるべし! <文/棚橋弘至 写真/©新日本プロレス> 1976年生まれ。新日本プロレスの第11代社長(’23年12月就任)。’26年1月4日を以て現役を引退。キャッチコピーは「100年に一人の逸材」
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