絶望を救ってくれた街・下北沢にあるカレー店『八月』の優しさは変わらない/カツセマサヒコ
ただ東京で生まれたというだけで何かを期待されるか、どこかを軽蔑されてきた気がする――。そんな小説家カツセマサヒコが“アウェイな東京”に馴染むべくさまざまな店を訪ねては狼狽える冒険エッセイ。今回訪れたのは、新卒で入社した印刷会社を辞め、再就職した編集プロダクション時代、行きつけだったカレー店だ。
いまでも贔屓にしているお店での願いは今日も「すこしドラマになってくれ」。
このまま死にたくない、と強く奥歯を噛み締めたのは、大学を卒業して働き始めた印刷会社のロッカールームで泣いた、その帰り道だった。
毎日スーツを着て満員電車に揺られて、大企業ゆえに希望した覚えもない部署で働き、ミスを繰り返し、誰からも期待されない日々が続いて、心が確実に枯れかけていた。
自分の人生がこの会社のためにあるとはどうしても思えず、どこかで誰かが救ってくれないかと助けを求め続けて5年が過ぎた頃に、ようやく船が通りかかった。それが下北沢にある小さな編集プロダクションで、私に書き仕事をくれた会社であった。
その会社は、だらしがなかった。当時の下北沢そのものみたいだった。先輩社員は昼から事務所内で酒を飲んだり、スウェットで出社したから六本木には行けませんと得意先との打ち合わせを断ったりしていた。事務所を出ればバンドマンや芸人や舞台役者がだるそうに商店街を歩いていて、なんだか全てがまったりとしていた。緊張感がどこにもなかった。
それでも原稿を書くか、編集をしないと給料がもらえないので、ひたすら書いた。前の仕事に比べれば、どんな原稿もまったく苦ではなかった。
週5日下北沢に通えば、どれだけ人見知りでも友人は増えてくるし、その友人は皆、行きつけの店を持っていた。いくつかの喫茶店や古着屋や飲み屋はそうして開拓されて、チェーン店にしか行けない私にも、下北沢にだけはいくつか贔屓にしている個人店ができた。
そのうちの一つに、カレーの店「八月」がある。
1986年、東京都生まれ。小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。そのほか著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。好きなチェーン店は「味の民芸」「てんや」「珈琲館」
余所者なりの我が物顔【下北沢駅・八月(カレー店)】vol.17
1986年、東京都生まれ。小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。そのほか著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。好きなチェーン店は「味の民芸」「てんや」「珈琲館」



