更新日:2025年10月28日 18:04
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保育園の迎えで会議を切り上げる…パパをこなす男を良しとする世界にいつからなったのか/小説『まだおじさんじゃない』【第三章・第一話】/鳥トマト

出版社・有幻社で漫画編集者として働く若林信二。担当漫画家・ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化が決まり、ライツ事業部のアニメプロデューサー・堅山賢一とやりとりを重ねているが、堅山の〝真っ当さ〞に直面し、自らの〝周回遅れ〞が気になり始めていた。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第三章(若林信二編)・第一話「婚活ドラゴンスレイヤー」

「若林さん、ちょっといいですか? 先日の真中先生が製作委員会に参加したいとおっしゃってる件で」  第二回「わたカレ」アニメ製作委員会で俺は堅山に呼び止められた。 「海外周りのメンバーの返事をまだ刈り取れてなくて少しお時間いただきそうなのですが、先生は大丈夫そうですか?」  堅山が早口なので、俺は理解に時間がかかる。 「海外周りって何ですか?」  ライツ部門の専門用語をいきなり使われても編集の俺にはわからない。もう少しわかりやすく説明できないんだろうか。 「えっと、じゃあ、一度メールで詳しく状況ご説明しますね。すみません、今日は保育園にお迎えに行かないといけないんで、この辺で。夜ご連絡します!」  竪山はそう言うと、俺や多数のメンバーを会議室に残し、颯爽と帰っていった。 「竪山さんってお子さんいたんだ」 「ね、パパ味あっていいよね」  会議室に残された若い女性たちが小声で話しているのが聞こえる。  いつの間に、竪山みたいな人間が良しとされる世界になったんだ、と思う。俺が二十代の頃に保育園のお迎えのために仕事を切り上げる男なんてほぼいなかった。仮にいたとしても、仕事よりも私生活を優先するなんて自分勝手でやる気がない男だ、と思われたに違いない。家庭を重視する人間が魅力的だとされる世界線にいつ切り換わったんだ? 俺たちみたいな仕事って、朝から晩までプライベートを全部潰して破滅的に取り組んで、家庭なんか多少、崩壊している方がイケてるとされるんじゃなかったの? 少なくとも俺は二十代、三十代とそう信じて仕事に取り組んできた。それなのに、今の俺と、竪山を見比べる皆さんの目つきときたら。これじゃまるで俺が人生一周遅れになったダサい人みたいじゃないか。早く、竪山に追いつきたかった。結婚して、子供を持って、家庭優先の仕事スタイルで、社会的な評価まで上がるなんてズルすぎる。子育てをしている自分の姿は今でも全く想像できない。でも、一生このまま「家庭のないダサいおじさん」みたいな扱いを受けるのは恐ろしい。  ポケットが震えて、スマホを見ると仕事の連絡ではなく、マッチングアプリの通知だった。早く堅山みたいな人間の人生に追いつきたくて、先月から俺はマチアプを始めていた。  マチアプは嫌いだ。こんなの、人間のメルカリだ。自分がこの日本の恋愛市場においてどれくらいの価値があるのか、全てが数値で測られる人身売買のフリマに出品されているようで気分が悪い。
漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『東京最低最悪最高!』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『アッコちゃんは世界一』『幻滅カメラ』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato