更新日:2025年12月11日 12:10
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限界まで頑張り続けた先にいいことがあるのか。妻とのセックスを終えて自問自答する休日の夜 小説『まだおじさんじゃない』【第四章・第二話】/鳥トマト

 出版社・有幻社のライツ事業部で、アニメプロデューサーとして働く堅山賢一。漫画編集者・若林信二の担当コミック『私の理解あるカレ君』、通称「わたカレ」のアニメ化を担当しているが、著者のヒルビリー真中が「製作委員会に出資したい」と面倒なことを言い出した。そんなある日、部長に呼び出されて伝えられたのは部長の異動と、堅山の部長代理昇進の話だった。 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第四章(堅山賢一編)・第二話「言いにくい話」

「堅山さん、真中先生が製作委員会に挨拶する日って、決まってましたっけ?」  部署の自分のデスクに戻ったあと、若林から電話でもう何回も聞かれたことをまた聞かれ、僕は腹を決めた。猿渡から聞かされた恐ろしい話を若林にも伝えなくてはいけない。深呼吸をする。 「ちょっと問題が発生したので、落ち着いて聞いてください」  はい? と若林の気の抜けた声がする。 「まず、先日報告した『わたカレ』のアニメ製作委員会なんですが、白紙に戻りました。委員会メンバーのうち一社の資金繰りが悪いみたいで」  若林は何も言わない。 「その会社とは猿渡部長が直接話をつけてきてまして、元々『わたカレ』だけでなく、少年誌で連載している作品も含めて十作品ほどをバンドルしてアニメ化の約束をしていたのですが」 「バンドルってなんですか」 「えーっと、雑に説明するとセット販売です。その十作品、全て委員会の組成からやり直しになりました」  若林は五秒ほどの沈黙のあとに「えーっと詳しいことはわからないんですけど、ざっくりまとめると『わたカレ』のアニメ化は流れたって理解であってます?」と言った。若林の理解の遅さにあきれる。 「流れてはいません。アニメ制作会社もスタッフもそのままで、企画は進行中です。ただ、今から出資してくれる別の会社を探さなくてはならないので、真中先生の委員会の参加の可否を今日明日中に回答するということはいったん、不可能になりました。ただ、このことはまだ先生には言わないでいただけるとありがたくて……おそらく数か月から半年お待ちいただければ、別の会社と委員会を再組成して、いい結果をお戻しできるので」  若林は大きなため息をついて「わかりました」と言い、電話は切れた。ため息をつきたいのはこっちだ。これをあと九作品分やらなくてはならないのかと思うと、ゾッとする。  振り返ると、山野が不安そうな顔で僕を見ている。 「『わたカレ』アニメ化できないんですか?」  僕はできる限り平静な顔で「委員会メンバーが途中で変わるのはよくあることだよ」と言った。 「プロデューサーはみんなの尻拭いをするのが仕事だから。問題が起きるから、僕らの仕事があるんだよ」  山野に言いながら、僕は自分にも言い聞かせていた。後輩がいてよかった。そうでもなければ僕だって今すぐ職場を飛び出して叫び出したいくらい焦っている。委員会組成がダメになることはよくある。ただ、すでに成立している委員会が十個も同時に破綻したなんて例は聞いたことがない。それも、組成した本人の部長が異動になってしまうときた。これは「よくあること」じゃない。  土曜日の夜、僕は家の書斎で仕事をしていた。猿渡が残していった契約できなくなった十本のアニメの委員会構成をどうするか、考えなくてはならない。 「賢一君、まだ仕事する?」  書斎にお茶を持ってきてくれた優が話しかけてくる。 「お休みの日は、ちゃんとお休みしてほしいな」  優が「いい妻」としての役割をまっとうするためにそういったセリフを言っているのを僕はわかっている。これは家庭という演劇だから。しかし今はあまりにも緊急事態なのだ。演技をしている場合ではない。僕は「ありがとう、今日はまだ仕事をしないと」と言ってパソコンに向き直る。 「ねぇ、今日だよ」  肩の後ろから話しかけてくる優に、またその話か、と思う。優は子供が二人欲しいらしい。僕たちは妊活のために、ここ一年ほど、月に一回必ず、妻に指定されたタイミングで性交渉をしている。ほぼ義務だ。優は全く立ち去る気配がない。じっと後ろから僕の手元を見続けているのを感じる。立ち去ってくれないと仕事しにくい。振り返って優を見ると、その目は真剣だった。なるほど。仕事同様に、妻にとっては二人目の子供は緊急事態案件ということらしかった。  立ち上がり、優を抱き寄せた。今、僕は家族を増やすための歯車なんだ、と思うとどっと疲れが出た。優は泣きそうな顔で僕を見ている。この「家庭」という演劇でちゃんと僕が「良き夫」という役目を果たせるかを見定めようとしている。 「リビングのソファーでいい? ベッドは健吾が寝てるから」  僕の提案に優は静かに頷いた。妻の手を引いて書斎からソファーに移動しながら最近僕がエッチだと思ったものって何だろうと必死に頭を振り絞る。この状況で性的に興奮したフリをしないといけないのは正直、きつい。先日、会社で見た山野の脚を思い出した。デニムスカートの下の、白くて艶のある、よく動く脚。ごめん、山野。  リビングでのセックスが終わったあと、僕と優は裸でソファーに横になっていた。体がだるくて、すぐに立ち上がれない。 「健吾さ、最近公文の宿題できてないじゃない? だから賢一君にも勉強を見てほしくって。やっぱりパパが見てくれると違うと思うの」   優が裸のまま息子の教育の話をし始めてギョッとした。これ以上まだ僕に要求することがあるのか? 「在宅勤務とかもできるんでしょ? お仕事ってもうちょっとセーブできないのかな?」  僕のスマートウォッチをつけたままの腕を枕にして妻は息子の教育の話をし続ける。教育の話をするたびに、優は子供と自分が一体化しすぎているように感じる。大学なんか、子供が自分で選んで、そこを目指して勉強するだろう。僕がそうだったように。でも、中学から大学までエスカレーター式の私立の学校に行っていた優はそうは思わないらしい。子供には親が大学までのレールを敷いてあげるべきという思想があるらしかった。  僕は現時点でかなり自分の時間を切り崩して家族のために割いている。というか、仕事をする以外の時間はほぼ全て家族といると言っても過言ではない。これ以上、家族を大事にしろと言うなら、仕事量を減らすしかない。だが、仕事を自分に都合よく減らすということは至難の業だ。僕がこのタイミングで仕事量を減らしたいと言ったら、別の男が部長代理になるだろう。そうすると、実質、僕は部長になる機会を完全に失う。  優が僕の腕に抱きついてくる。優は自分の体にまだ価値があると思っている。だから、わざわざセックスが終わったこのタイミングで、断りにくい話をするのだ。申し訳ないが、僕はあまり妻の体には思い入れがない。何かを妻に捧げなければ、一生セックスできないというのなら、それでも構わない。旦那がそう思っていることにこの女は気がついてない。自己肯定感が高くて、おめでたい。妻はきっと優しいご両親に大切に育てられたのだろう。 「もっと家族を大事にしてほしいの」  優の目が真っすぐに僕を見ている。 「大丈夫だよ」  優を抱きしめる。何も大丈夫じゃない。正確に言えば、子供の人生なんか大丈夫だろうが大丈夫じゃなかろうが、僕の知ったことじゃない。だって、子供の人生は、子供のものだ。でもその感覚はきっと優にはわからない。来週月曜日までに、新しい部長に提案する委員会組成案を作成しないといけない。スマートウォッチが震えて、新しいメールが来たことを知らせてくる。妻を抱きしめながらバレないように腕を見て時間を確認した。  優が寝たあとのリビングでキーボードを叩き続ける。目が霞んできて目頭を押さえる。徹夜なんかできるのは、何歳までなんだろう。何歳までこんなふうに限界まで頑張り続けないといけないんだろう。そもそも、こんなに頑張ったところで、僕の人生に何のいいことがあるっていうんだ?   あわよくば部長になれるかも、なんて思わなければ、もっと楽に生きられるのかもしれない。自分の人生をそろそろ諦めないといけないのかもしれない。でも、まだうまくそれができない。頑張れば、まだ何かいいことがあるんじゃないかって心のどこかで思ってしまう。  何かって、何? まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳、バツイチ。出版社・有幻社の青年漫画誌の編集部で働く漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

堅山賢一…39歳。既婚で妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『わたカレ』のアニメ化を進める
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。前職で上司と不倫して退職したという噂がある
山野美羽

山野美羽

猿渡慎平…49歳。バツイチ。有幻社ライツ事業部部長。基本プロパーしか出世できない有幻社において、転職組の中で唯一部長になった男
猿渡慎平

猿渡慎平

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『東京最低最悪最高!』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『アッコちゃんは世界一』『幻滅カメラ』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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